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アリー・ハラウィー・サーイフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アリー・ハラウィー・サーイフعلي الهروي السائِح‎)は、12-13世紀のスーフィーウラマー、詩人[1]。「旅人」(サーイフ)のあだ名の示すとおり、西アジアを中心に、地中海から中央アジア、インドからエチオピアまで、世界各地を旅行した(#生涯[1][2]。著作に世界各地の聖地巡礼のガイドブックがある(#著作)。

生涯

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イブン・ハッリカーンは『有名人伝記集』で、ハラウィーを、まず、「高名な旅人」と紹介する[2]。ハラウィーのあだなである「サーイフ」は「旅人」もしくは「漂泊者」の意である。イブン・ハッリカーンは「海であろうと陸であろうと、平野であろうと山地であろうと、ハラウィーが行けなかった場所、見なかった場所はない」と書く[2]。ハラウィーは旅先の街の城壁に、訪問記念として自分の名前を書いた。イブン・ハッリカーンは「自分も方々を旅して回ったが、どこの街を訪れてもハラウィーの名前を目にした」と書いている[2]

イブン・ハッリカーンによると、ハラウィーの名前(イスム)は、アブル・ハサン・アリー・ブン・アビー・バクル・ブン・アリーという[2][3]。ハラウィーのニスバは、この人物の父系先祖が中央アジアのヘラートからイラク地方に移住してきたとされるためである[2]。ハラウィー自身は、モスルの生まれである[2]

ハラウィーは長じてバグダードに住みついた[1]。バグダードを治めるアッバース朝カリフナースィル・リディーニッラーはハラウィーに庇護を与え、バグダードの大モスクの金曜礼拝の導師に任命した[1]。ハラウィーはカリフの宮廷に侍る他のスーフィーたちと親しく交わり、バグダードに道場を持つ各神秘主義教団のまとめ役になった[1]。また、スンナ派とシーア派の間を取り持って関係を改善させた[1]。カリフ・ナースィルはその後、ハラウィーをアレッポの大モスクの導師に任命した[1]。カリフはハラウィーに、大シリア地方各地のスークを回って、商人たちに道徳を説き、耕作放棄地の再開墾を勧める任務を与えたようである[1]

イブン・ハッリカーンは、ハラウィーには「スィミヤー」(simyā)の才能があったという[2]。『有名人伝記集』を翻訳したド・スラヌによると、スィミヤーとは早業や奇術の類である[2]。ハラウィーはアレッポで、当地を治めていたアイユーブ朝の太守、マリク・ザーヒルサラーフッディーンの息子)に気に入られた[2]

ハラウィーは1173年から1174年の間にエルサレムを訪問した。当時エルサレムはキリスト教徒の手中にあった。ハラウィーの旅行記にはエトナ山の噴火の被害を見たことや、コンスタンティノープルでマヌエル1世コムネノスに謁見したことが書かれている。1197年にハラウィーは、獅子心王リチャードアッコの町に包囲する軍船の一つに捕まり、執筆中の旅行記を取り上げられてしまった。

著作

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ハラウィーは諸国の聖地を巡礼するためのガイド本を書いた。題名は کتاب الإشارة فی معرفة الزیارة という。この本には、シャーム地方(シリア)、パレスチナ、エジプト(ミスル)、ビザンツ帝国、バイナル・ナフライン(ジャジーラ地方)、インド、アラブ諸国、マグリブ、エチオピア(ハバシュ)といった諸国への言及がある。マグリブとハバシュを除いて、上記のすべての国々について、ハラウィーは、簡潔ではあるが誰かの伝聞ではない自分が見たことを書いている。ハラウィーには、このほか、「アジャーイブ本」(کتاب العجائب)と呼ばれるタイプの著書もある。

ハラウィーはヒジュラ暦611年ラマダーン月10日から20日の間にアレッポで亡くなった[2][3]。この日付はグレゴリオ暦1215年1月20日から30日に当たる。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h Meri, Josef W. (31 October 2005). "HARAWI, AL-, ʻALI B. ABI BAKR". In Josef W. Meri (ed.). Medieval Islamic Civilization. An Encyclopedia, vol.1. Psychology Press. ISBN 9780415966900 pp.313-314
  2. ^ a b c d e f g h i j k イブン・ハッリカーン『有名人伝記集』(アリー・アルハラウィー・アッサーイフの項)
  3. ^ a b الأعلام - ج 8 : نافع بن ظريب - يوهنس - خير الدين الزركلي‎(ハイルッディーン・ズィリクリーペルシア語版『伝記集』)p.23