アルカンタラ騎士団
アルカンタラ騎士団(スペイン語: Orden de Alcántara、英語: Order of Alcántara)または聖フリアン騎士団(英語: Knights of St. Julian)[2]は、1166年にレオン王国の騎士団として発足し[3]、1177年に教皇アレクサンデル3世により承認された騎士修道会[4]。設立年は1156年とする資料もある[1]。後述のキリスト教徒による最後のアルカンタラ占領後に同地を与えられ、アルカンタラ騎士団と称した[5]。1093年ごろポルトガルに発生した Ordem de São Julião do Pereiro を前身としている[6]。
カラトラバ騎士団などとともにシトー会のモリモン修道院の監督下におかれ、レコンキスタに参加した[7]。レコンキスタが1492年のグラナダ陥落をもって完了するとその役目を終え、騎士修道会としての最後の総長であったホアン・デ・スーニガ(フアン・デ・スニガ 、en:Juan de Zúñiga y Pimentel)は騎士団領を返上、以降騎士団はスペインに直属することとなり、1523年にハドリアヌス6世もこれを認めた[5]。1542年には団員の結婚も許可され、騎士団は19世紀中ごろまで存続したという[8]。
アルカンタラの名
[編集]アルカンタラはタホ川に接した町で、川には橋(アラビア語でカンタラ cantara )が架かっており、町の名称はこれに由来する。エストレマドゥーラ州に位置し、12世紀におけるイベリア半島のムスリム対キリスト教徒の主戦場のひとつとなった。アルカンタラは1167年にレオン王フェルナンド2世により一旦占領されたが、1174年には再びムワッヒド朝のアブー=ヤアクーブ・ユースフ1世の手に落ちた[9]。キリスト教徒の手に戻るのはアルフォンソ9世の奪還による1214年(または1213年[5])までかかった[10]。
脚注
[編集]- ^ a b 大形徹「九州西部における隠れキリシタン後裔の花文化 : 墓地の植物文様を中心として」『人文学論集』、大阪府立大学人文学会、69頁、2012年。ISSN 0289-6192 。
- ^ The Orders of knighthood, British and foreign, Ed. Sourindro Mohun Tagore, (Catholic Orphan Press, 1884), 96.
- ^ Vives, Jaime Vicens, Approaches to the History of Spain, (University of California Press, 1967), 49.
- ^ Prescott, William Hickling, History of the reign of Ferdinand and Isabella, the Catholic, of Spain, Vol.1, (Richard Bentley, 1838), 326.
- ^ a b c 松田緝「フガー家のマエストラスゴ経営」『経済と経営』、札幌大学、87-109頁、1974年。ISSN 03891119 。
- ^ João Romano Torres 編. “São Julião Pereiro (Ordem de).”. arqnet.pt. 2014年12月29日閲覧。
- ^ プレスイール,レオン 著、遠藤ゆかり 訳、杉崎泰一郎 編『シトー会』 155巻、創元社〈「知の再発見」双書〉、2012年、74頁。ISBN 978-4-422-21215-9。
- ^ カサノヴァ,ジャコモ 著、田辺貞之助 訳『カザノヴァ回想録(第七巻)』グーテンベルク21、2013年 。訳注より。
- ^ Fernando II, King of Leon, Bernard F. Reilly, Medieval Iberia: An Encyclopedia, Ed. E. Michael Gerli, Samuel G. Armistead, (Taylor & Francis, 2003), 329.
- ^ O'Callaghan, Joseph F., Reconquest and crusade in medieval Spain, (University of Pennsylvania, 2003), 75.
外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、アルカンタラ騎士団に関するカテゴリがあります。