アルフォンソ1世・デステ
アルフォンソ1世・デステ Alfonso I d'Este | |
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モデナ=レッジョ公 | |
アルフォンソ1世・デステ像、ティツィアーノ画 | |
在位 | 1505年1月25日 - 1534年10月31日 |
別号 | フェラーラ公 |
出生 |
1476年7月21日 |
死去 |
1534年10月31日(58歳没) |
配偶者 | アンナ・マリーア・スフォルツァ |
ルクレツィア・ボルジア | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | エステ家 |
父親 | エルコレ1世・デステ |
母親 | レオノーラ・ダラゴーナ |
アルフォンソ1世・デステ (Alfonso I d'Este, 1476年7月21日 - 1534年10月31日)は、モデナ=レッジョ公、フェラーラ公。コンドッティエーレ。カンブレー同盟戦争で活躍した。エルコレ1世・デステと妃レオノーラ・ダラゴーナの長子。姉はルネサンスの華と謳われたイザベッラ、ベアトリーチェである。
生涯
[編集]1505年に公位を継承した直後、実弟フェランテと異母弟ジューリオが、アルフォンソ1世ともう1人の弟イッポーリト枢機卿に対してたくらんだ陰謀に直面した。1506年9月、不敬罪の容疑で2人を捕らえて死刑を宣告したが、彼らを絞首刑にするところを変え、終身刑とした。2人はトッレ・ディ・レオニの2つの独房に分けて幽閉された。フェランテは34年後に独房で死に、ジューリオは53年もの幽閉ののち赦免され解放された。釈放後、ジューリオはフェッラーラの街頭で時代遅れの衣服を嘲笑されたという。
イタリア戦争において、アルフォンソ1世はカンブレー同盟側についた。ローマ教皇ユリウス2世によって司令官に命じられ、ポレセッラの戦いでボローニャを獲得。しかし1510年にユリウス2世に破門され、フェラーラを教皇領にされた。その後はヴェネツィア共和国や教皇庁の敵と戦い続け、1512年のラヴェンナの戦いでは、フランス軍に勝利をもたらす重要な役割を演じた。これらの快進撃は、ラ・ジューリアと名付けられた巨大な大砲を含むフェラーラの兵器がもたらしたとされている。
1526年、クレメンス7世から破門されローマに幽閉されるが、これがローマ略奪の切っ掛けとなる。1530年、神聖ローマ皇帝カール5世と和解したクレメンス7世はアルフォンソ1世の破門を解き、モデナとレッジョを与えた。
父同様音楽のパトロンであり、アントワーヌ・ブリュメルやアドリアン・ヴィラールトを宮廷へ招いた。
家族
[編集]1496年、美貌で知られたアンナ・マリーア・スフォルツァ(ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの娘)と結婚。同時期に姉ベアトリーチェはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァと結婚した。1497年にアンナは女児を死産して産褥死した。
1501年、アレクサンデル6世の娘ルクレツィア・ボルジアと再婚。ルクレツィアは3度目の結婚であった。
- アレッサンドロ(1505年)
- 女児(1507年、死産)
- エルコレ2世(1508年 - 1559年)
- イッポーリト(1509年 - 1572年) - 枢機卿
- アレッサンドロ(1514年 - 1516年)
- エレオノーラ(1515年 - 1575年) - フェラーラ、コルプス・ドミーニ修道院長
- フランチェスコ(1516年 - 1578年) - マッサロンバルダ侯
- イザベッラ=マリーア(1519年、死産)
また、ラウラ・ディアンティとの間に庶子が2人いた。
- アルフォンソ(1527年 - 1587年) - モンテッキオ侯。1549年、ジューリア・デッラ・ローヴェレ(フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの娘)と結婚。死別後、1584年にヴィオランテ・シーニャと再婚。チェーザレ・デステの父。
- アルフォンシーノ(1530年 - 1547年) - カステルヌオーヴォ伯
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