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アルフレート・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルフレート
Alfred
ザクセン=コーブルク=ゴータ家
ザクセン=コーブルク=ゴータ公世子アルフレート(1893年)

全名
称号 ザクセン=コーブルク=ゴータ公世子
出生 (1874-10-15) 1874年10月15日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドロンドンバッキンガム宮殿
死去 (1899-02-06) 1899年2月6日(24歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国メラン、マルティンブルン療養所
埋葬 ドイツの旗 ドイツ帝国
ザクセン=コーブルク=ゴータ公国コーブルク、グロッケンブルク墓地
父親 アルフレート
母親 マリヤ・アレクサンドロヴナ
宗教 キリスト教イングランド国教会
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アルフレート・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータドイツ語: Alfred von Sachsen-Coburg und Gotha, 1874年10月15日 - 1899年2月6日)は、ドイツザクセン=コーブルク=ゴータ公国公世子。またイギリス王族としてエディンバラ公爵位の相続予定者だった[1]英語名はアルフレッド・オブ・エディンバラAlfred of Edinburgh)。

生涯

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アルフレッドと母および4人の妹たち

1874年10月15日、エディンバラ公アルフレッドヴィクトリア女王の次男)とその夫人マリヤ・アレクサンドロヴナロシア皇帝アレクサンドル2世の次女)の間の長男(第1子)として生まれた。11月27日にバッキンガム宮殿の一室で、カンタベリー大主教アーチボルト・テート英語版により洗礼を受けた。洗礼の代父母にはヴィクトリア女王(祖母)、アレクサンドル2世(祖父)、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(曾祖叔父)、ドイツ皇太子妃ヴィクトリア(伯母)、ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト2世(大伯父)、ウェールズ公エドワード(伯父)が名を連ねた[2]

少年時代はクラレンス・ハウスで暮らした。アルフレッドは才能豊かだが非常に繊細な少年だった。父がザクセン=コーブルク公爵家の家督を継ぐことが決まっていたこともあり、アルフレッドは家庭教師のヴィルヘルム・ロルフス博士[3]から厳格なドイツ式教育を受けた。ロルフスはアルフレッドの自尊心を傷つけるのを好んだ。アルフレッドは妹たちとは引き離されて育てられ、海軍軍人として常に不在がちな父とも疎遠だった。傲慢で冷たい性格の母は、家庭教師による息子の教育方針を支持した。アルフレッドの少年時代は家庭的な温かみとは無縁のものだった。

1893年に父がザクセン=コーブルク公爵家の家督を継ぐと、家族とともにコーブルクローゼナウ城英語版に移った。後にポツダム駐屯のプロイセン第1近衛歩兵連隊ドイツ語版所属の少尉に任官したが、軍務への熱意は示さなかった。公世子となって間もなく、アルフレートは母方の又従妹にあたるヴュルテンベルク公女エルザ英語版(母の従妹ヴェラ・コンスタンチノヴナ大公女の長女)と婚約し、1895年1月28日付の英国王室行事日報にも2人の婚約記事が掲載された。しかし婚約は後に破棄された。

アルフレートはポツダムでの不品行のために梅毒に罹り、1899年1月22日に行われた両親の銀婚式の記念式典にも出席できないほど症状が進行し、麻痺性痴呆が始まっていた。この式典の最中に1人になったアルフレートは拳銃で自殺を図り、重傷を負ってゴータフリーデンシュタイン城英語版に運び込まれた。1月25日、療養のためにメランのマルティンブルン療養所に移送されたものの、2月6日に24歳で死去した[1]。翌1900年に父が死去すると、ザクセン=コーブルク=ゴータ公位は従弟のオールバニ公チャールズ・エドワードに移った。

当時、死因については新聞などには腫瘍のためと発表され[4]、遺族の回想録などによる証言でも病因による衰弱と示唆されるに留まっていた[4]。他方、拳銃自殺の理由として、アイルランド貴族の第4代リンスター公爵チャールズ・フィッツジェラルドの孫娘メイベルと1898年に秘密結婚したことで、母親を始め家族に猛反対されたためだとする説も存在する[5][6]。この説にはそれを裏付ける資料も客観的な信憑性もないが、一部の伝記作家に加えて、現在のコーブルク公爵家の公式見解もこの説を支持している[1]

脚注

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  1. ^ a b c Sandner, Harold (2004). “II.4.2 Erbprinz Alfred” (Deutsch). Das Haus von Sachsen-Coburg und Gotha 1826 bis 2001. Andreas, Prinz von Sachsen-Coburg und Gotha (preface). 96450 Coburg: Neue Presse GmbH. pp. 155–156. ISBN 3-00-008525-4 
  2. ^ Yvonne's Royalty Home Page — Royal Christenings
  3. ^ Raymond Lamont Brown (2010). How Fat Was Henry VIII?. The History Press. p. 261. ISBN 9780752462349. https://books.google.co.jp/books?id=GBY7AwAAQBAJ&pg=PA261&lpg=PA261&dq=Rolfs&source=bl&ots=b7J-yNcACv&sig=8gD-7vZJz5-XzrCD1thYvv9Lcoc&hl=ja&sa=X&ei=kTz5VJ3SHce58gWQ6YGYAw&ved=0CEcQ6AEwBg#v=onepage&q=Rolfs&f=false 2015年3月6日閲覧。 
  4. ^ a b Eilers, Marlene (1997). Queen Victoria's Descendants. Falköping, Sweden: Rosvall Royal Books. p. 62. ISBN 91-630-5964-9 
  5. ^ Eilers, Marlene (1997). Queen Victoria's Descendants. Falköping, Sweden: Rosvall Royal Books. p. 176, footnote 2. ISBN 91-630-5964-9 
  6. ^ 1940年代に出現したこの説は信憑性が極めて低い。アルフレートとメイベルが面識があった証拠はどこにもなく、メイベルは1898年にはまだ14歳の少女だった。さらに彼女が1910年にウィリアム・クラーク・ハドークと結婚した際、新婦は初婚だと記録に残されている。