コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

アルベリーコ2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルベリーコ2世
Alberico II
ローマの支配者

出生 912年
死去 954年8月31日
配偶者 アルダ・ディ・プロヴェンツァ
子女 ヨハネス12世
家名 トゥスクルム家
父親 スポレート公アルベリーコ1世
母親 マロツィア
テンプレートを表示

アルベリーコ2世(Alberico II di Spoleto, 912年頃 - 954年8月31日)は、10世紀ローマにおいて最も権力を振るった貴族の一人。

生涯

[編集]

アルベリーコ2世は、スポレート公アルベリーコ1世と、トゥスクルム伯テオフィラットの娘マロツィアの間の息子である。936年以後にイタリア王ウーゴの娘アルダと結婚した。

932年、母マロツィアとイタリア王ウーゴの結婚式を襲撃し、ウーゴをローマから追放し[1]、アルベリーコはローマの支配者となった。アルベリーコは母マロツィアと兄教皇ヨハネス11世を牢獄に幽閉し、ポルノクラシーの時代が終わった。

22年間、アルベリーコは「全ローマのプリンケプスおよび元老院議員(princeps ac senator omnium Romanorum)」としてローマを支配した。アルベリーコの支配下で、ローマの秩序と品位が元に戻った。951年、アルベリーコは東フランク王オットー1世が皇帝への戴冠のためローマに入ろうとするのを拒否した。統治下の教皇(レオ7世ステファヌス8世マリヌス2世アガペトゥス2世)は全て、アルベリーコにより擁立された。954年、ローマ貴族らに、次の教皇にアルベリーコの息子オクタヴィアヌスを就けることを誓約させた。オクタヴィアヌスは翌955年、ヨハネス12世として教皇位に就いたが、最も教皇にふさわしくない人物の一人であった。

脚注

[編集]
  1. ^ 瀬原、p. 71.

参考文献

[編集]
  • Girolamo Arnaldi : Alberico di Roma . In: Alberto M. Ghisalberti (ed.): Dizionario Biografico degli Italiani (DBI). Volume 1 (Aaron Albertucci), Istituto della Enciclopedia Italiana, Rome 1960th
  • Friedrich Wilhelm Bautz: Alberich II .. In: Biographic-bibliographic church encyclopedia (BBKL). Volume 1, Bautz, Hamm 1975. 2. unchanged edition Hamm 1990 ISBN 3-88309-013-1 , Sp. 78th
  • Theo Kölzer : Alberich. In: Encyclopedia of the Middle Ages (LEXMA). Volume 1, Artemis & Winkler, Munich / Zurich 1980 ISBN 3-7608-8901-8 , Sp. 280-281.
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年