コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

アルベルト (スチェルツェ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルベルト
Albert strzelecki
オポーレ公
スチェルツェ
在位 オポーレ公1313年 - 1323年
スチェルツェ公:1323年 - 1375年

出生 1300年以前
死去 1375年9月25日以前
埋葬 イェミェルニツァ
配偶者 アグネス・フォン・ハルデック
子女 エルジュビェタ
家名 シロンスク・ピャスト家
父親 オポーレ公ボルコ1世
母親 アグネス・フォン・ブランデンブルク
テンプレートを表示

アルベルト(Albert strzelecki, 1300年以前 - 1375年9月25日以前)は、オポーレ公(在位:1313年 - 1323年、兄ボルコ2世と共同統治)、スチェルツェ公(在位:1323年 - 1375年)。オポーレ公ボルコ1世の三男、母はブランデンブルク辺境伯オットー3世の娘アグネス。

生涯

[編集]

1313年に父が死ぬと同時にアルベルトと次兄ボルコ2世と共にオポーレ公国を相続したが、両者は未成年であったため、兄弟の長兄であるニェモドリン公ボレスワフが摂政を務め、1323年にボルコ2世とアルベルトの親政が始まった。しかし兄弟はまもなく公国の分割を決め、ボルコ2世はオポーレを保持し、アルベルトがスチェルツェを分け与えられた。

アルベルトの統治に関することは外交、内政ともにほとんどよく分からない。1327年にアルベルトはボヘミア王の封臣となったが、オパヴァで他のシロンスク諸公と一緒にボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクに臣従の礼を取る場には出て来ていない。この理由は不明である。1326年には、アルベルトは公国の首都スチェルツェに都市特権を与えている。また、イェミェルニツァにある父の建てたシトー会修道院を経済的に支援していた。

アルベルトの正確な死亡日は不明である。アルベルトが生きているのが分かる最後の史料は1366年のものだが、歴史家達は彼の死亡時期を1370年から1375年の間としている。遺体はイェミェルニツァの修道院に埋葬された。男子相続者がなかったため、遺領は甥でボルコ2世の次男ボルコ3世に相続された。

子女

[編集]

1347年マクデブルク城伯ブルクハルト1世・フォン・ハルデックの娘アグネス(1371年5月27日没)と結婚し、一女をもうけた。

  1. エルジュビェタ(1348年頃 - 1361年4月17日以前) - 1359年12月1日、グニェフコヴォ公ヴワディスワフと結婚

参考文献

[編集]
爵位・家督
先代
ボルコ1世
オポーレ公
ボルコ2世と共同統治

1313年 - 1323年
次代
ボルコ2世
先代
新設
スチェルツェ公
1323年 - 1375年
次代
ボルコ3世