アレクサンドル・イズヴォリスキー
アレクサンドル・イズヴォリスキー Александр Петрович Извольский | |
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アレクサンドル・イズヴォリスキー | |
生年月日 | 1856年3月18日 |
出生地 | ロシア帝国・モスクワ |
没年月日 | 1919年8月16日(63歳没) |
死没地 | フランス共和国・ビアリッツ |
前職 | 外交官 |
内閣 | ピョートル・ストルイピン内閣 |
在任期間 | 1906年5月11日 - 1910年10月11日 |
皇帝 | ニコライ2世 |
アレクサンドル・ペトローヴィチ・イズヴォリスキー(ロシア語: Алекса́ндр Петро́вич Изво́льский、ラテン文字転写の例:Alexandr Petrovich Izvolskii、1856年3月18日 - 1919年8月16日)は、帝政ロシアの外交官、政治家。ストルイピンの下で外務大臣を務めた。
人物・略歴
[編集]1894年から1906年にかけて、バチカン、セルビア、バイエルン、日本、デンマークの各公使を歴任した。日本公使時代には、清国で義和団の乱が起こっており、イズヴォリスキーは日本に対し、日露両国による大韓帝国の分割を提案している[1] [注釈 1]。その後、1906年にはストルイピン首相の下で外務大臣に就任した。イズヴォリスキーは親英、親独の外交路線をとり、外交面からストルイピン体制、ストルイピン改革を支えた。特にイズヴォリスキーは、英露間の友好関係構築に尽力し1907年英露協商を締結することに成功している。1905年の日露戦争敗北後のロシアにあって、イラン、アフガニスタン、チベットにおける両国の勢力範囲を決定した。また、ロシア黒海艦隊のボスポラス海峡通過権を獲得した。英露両国の対立関係は解消し、ドイツの3B政策に対処することになる。
1908年オーストリア外相アロイス・レクサ・フォン・エーレンタールとボスニア・ヘルツェゴビナをめぐり外交交渉に臨むが、オーストリア・ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴビナを併合し外交的敗北を喫した。このボスニア・ヘルツェゴビナ併合が、ロシアの汎スラヴ主義、セルビアの大セルビア主義を刺激することとなった。また、オーストリア国内においては、民族問題が一層複雑化することとなり、後の第一次世界大戦の遠因を作ることとなる。
1910年9月に外相を解任され、フランス大使となる。ロシア革命の勃発後もフランスにとどまって亡命者となり、同国で没した。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 飯塚一幸『日本近代の歴史3 日清・日露戦争と帝国日本』吉川弘文館、2016年12月。ISBN 978-4-642-06814-7。
- Blennerhassett, William Lewis (1922). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 31 (12th ed.). London & New York: The Encyclopædia Britannica Company. p. 595. . In Chisholm, Hugh (ed.).
公職 | ||
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先代 ウラジーミル・ラムスドルフ |
ロシア帝国外務大臣 1906年 – 1910年 |
次代 セルゲイ・サゾーノフ |
外交職 | ||
先代 ロマン・ローゼン |
駐日ロシア公使 1899年 – 1902年 |
次代 ロマン・ローゼン |
先代 アレクサンドル・ベンケンドルフ |
駐デンマークロシア大使 1902年 – 1906年 |
次代 イヴァン・クダシェフ |
先代 アレクサンドル・ネリドフ |
駐フランスロシア大使 1910年 – 1917年 |
次代 ヴァシーリー・マクラコフ |