アレクサンドル・ボゴモロフ (外交官)
アレクサンドル・エフレモヴィチ・ボゴモロフ Александр Ефремович Богомолов | |
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生年月日 | 1900年 |
没年月日 | 1969年(68 - 69歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
出身校 | 赤軍高等軍事政治学校卒業 |
前職 | 軍人 |
所属政党 |
(ボリシェヴィキ→) ソビエト連邦共産党 |
称号 |
レーニン勲章[1] 祖国戦争勲章1等[1] 名誉記章勲章(2回)[1] |
子女 | セルゲイ (ru)[2] |
在任期間 |
1940年3月29日 - 1941年6月30日 1943年9月21日 - 1950年3月25日 |
在任期間 | 1941年 - 1943年11月30日 |
在任期間 | 1941年8月21日 - 1943年4月25日 |
在任期間 | 1941年8月21日 - 1943年11月12日 |
在任期間 | 1941年8月21日 - 1943年11月30日 |
その他の職歴 | |
在ロンドン・ギリシャ政府担当 特命全権公使・大使 (1941年9月3日 - 1943年11月12日) | |
在ロンドン・ルクセンブルク政府担当 特命全権公使 (1942年10月13日 - 1943年11月30日) | |
在ロンドン・ベルギー政府担当 特命全権公使・大使 (1942年10月18日 - 1943年11月30日) | |
在ロンドン・オランダ政府担当 特命全権大使 (1943年1月12日 - 11月30日) | |
駐チェコスロバキア特命全権大使 (1952年7月7日 - 1954年1月16日) | |
駐イタリア特命全権大使 (1954年1月22日 - 1957年3月2日) | |
外務副大臣 (1950年3月 - 1952年7月) |
アレクサンドル・エフレモヴィチ・ボゴモロフ(Александр Ефремович Богомолов、1900年 - 1969年)は、ソビエト連邦の外交官。
生涯
[編集]1900年に生まれ、1920年にボリシェヴィキに入党[1]。1922年に赤軍高等軍事政治学校を卒業した[3]。1919年から1930年まで赤軍で活動し、同年から1939年まで科学・教育部門で働き、同年から翌1940年3月まではソビエト連邦外務人民委員部 (ru) の書記長と第1ヨーロッパ部部長を務めた[4]。
その後、同月29日から翌1941年6月30日まで駐フランス・連邦大使、同年から1943年11月30日まで在ロンドン連合国政府担当大使、1941年8月21日から(公式には9月16日から)1943年4月25日までは在ロンドン・ポーランド政府担当大使、1941年8月21日から(公式には10月3日から)1943年11月12日までは在ロンドン・ユーゴスラビア政府担当大使、1941年8月21日から(公式には10月9日から)1943年11月30日まで在ロンドン・ノルウェー政府担当大使、1941年9月3日から(正式には10月21日から)1943年11月12日までは在ロンドン・ギリシャ政府担当公使および大使、1942年10月13日から翌1943年11月30日までは在ロンドン・ルクセンブルク政府担当公使、1942年10月18日から翌1943年11月30日までは在ロンドン・ベルギー政府担当公使および大使、1943年1月12日から11月30日までは在ロンドン・オランダ政府担当大使、同年9月21日から翌1944年10月23日まではフランス国民解放委員会担当大使、同日から1950年3月25日までは再度駐フランス大使を歴任した[4]。
駐仏大使時代には、西欧に住むソ連人の帰還を試み、1945年にはフランスで「ソ連愛国者協会」を組織[5]。6000人の帰還に貢献した[5]。テヘラン会談、ヤルタ会談、ポツダム会談や[1]パリ講和会議にも参加している[5]。1950年3月から1952年7月までは連邦外務副大臣に就き、同月7日から(正式には9日から)1954年1月16日までは駐チェコスロバキア大使、同月22日から(正式には翌2月24日から)1957年3月2日までは駐イタリア大使に就いた[4]。
同年2月から1962年までは外務省顧問、1958年からはソ連・イタリア友好協会副会長を務め、1962年に引退[4]。1969年にモスクワで死去した[4]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e Богомо́лов / Великая Отечественная война 1941-1945: энциклопедия. — М.: Советская энциклопедия. гл. ред. М. М. Козлов. 1985.
- ^ “АЛЕКСАНДР ЕФРЕМОВИЧ БОГОМОЛОВ”. Электронный архив людей. 2018年8月20日閲覧。
- ^ Абросимов И. (2009年). “Бл - Бя - Свод персоналий”. Свод персоналий. Проза.ру. 2018年8月20日閲覧。
- ^ a b c d e “Богомолов Александр Ефремович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年8月19日閲覧。
- ^ a b c Залесский К. А. (2002). Империя Сталина: Биографический энциклопедический словарь. М.: Вече. ISBN 5-7838-0716-8。
外交職 | ||
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先代 ニコライ・イヴァノフ |
駐フランス全権代表 1941年5月9日から特命全権大使 1940年3月29日 - 1941年6月30日 |
次代 なし |
先代 なし |
フランス国民解放委員会担当全権代表 1944年10月30日から駐フランス特命全権大使 1943年9月21日 - 1950年3月25日 |
次代 アレクサンドル・アブラモフ 代行 |
先代 なし |
在ロンドン連合国政府担当特命全権大使 1941年 - 1943年11月30日 |
次代 ヴィクトル・レベデフ |
先代 ニコライ・シャローノフ 駐ポーランド全権代表 |
在ロンドン・ポーランド政府担当特命全権大使 公式には1941年9月16日から 1941年8月21日 - 1943年4月25日 |
次代 ヴィクトル・レベデフ 駐ポーランド人民共和国特命全権大使 |
先代 ヴィクトル・プロトニコフ 駐ユーゴスラビア全権代表 |
在ロンドン・ユーゴスラビア政府担当特命全権大使 公式には1941年10月3日から 1941年8月21日 - 1943年11月12日 |
次代 ヴィクトル・レベデフ |
先代 ヴィクトル・プロトニコフ 駐ノルウェー全権代表 |
在ロンドン・ノルウェー政府担当特命全権大使 公式には1941年10月9日から 1941年8月21日 - 1943年11月30日 |
次代 ヴィクトル・レベデフ |
先代 ミハイル・セルゲーエフ 駐ギリシャ全権代表 |
在ロンドン・ギリシャ政府担当特命全権公使 公式には1941年10月21日から就任 1943年から特命全権大使 1941年9月3日 - 1943年11月12日 |
次代 ニコライ・ノヴィコフ 駐ギリシャ特命全権大使 |
先代 エヴゲニー・ルビーニン 駐ルクセンブルク全権代表 |
在ロンドン・ルクセンブルク政府担当特命全権公使 1942年10月13日 - 1943年11月30日 |
次代 ヴィクトル・レベデフ |
先代 エヴゲニー・ルビーニン 駐ベルギー全権代表 |
在ロンドン・ベルギー政府担当特命全権公使 7月20日から特命全権大使 1942年10月18日 - 1943年11月30日 |
次代 ヴィクトル・レベデフ |
先代 なし |
在ロンドン・オランダ政府担当特命全権大使 1943年1月12日 - 11月30日 |
次代 ヴィクトル・レベデフ |
先代 アナトリー・ラヴレンチエフ |
駐チェコスロバキア特命全権大使 正式には1952年7月9日から 1952年7月7日 - 1954年1月16日 |
次代 P・G・クレコテニ 臨時代行 |
先代 ミハイル・コストゥイリョフ |
駐イタリア特命全権大使 正式には1954年2月24日から 1954年1月22日 - 1957年3月2日 |
次代 セミョーン・コズィレフ |