アロン・プラン
アロン・プラン(ヘブライ語: תוכנית אלון、英語: Allon Plan)は、イスラエル国がヨルダン・ハシミテ王国に提示した領土分割交渉案である。1967年6月の第三次中東戦争の直後にイスラエルの副首相イーガル・アロンにより提唱された。
概要
[編集]このプランはヨルダン川西岸地区のパレスチナ人居住区の周囲をイスラエル領として覆い、「ジェリコ回廊」を隣国ヨルダンと繋げ、パレスチナとヨルダンの国家連合または連邦制の発足を目指すものとしていた。ヨルダン渓谷にはイスラエル軍を配置して、軍事的存在感を維持するものとしている[2]。 アロンの考えはパレスチナの独立国家としての存在の抑止にあり、当事者のパレスチナではなくヨルダンに分割統治を求めたものである[3]。
イスラエルはヨルダンのフセイン1世に示したが、国家連合や連邦制を導入すると人口で劣るヨルダン国家がパレスチナ国家にとって代わられ、ヨルダンではなくなってしまうという危惧から受け入れられなかった[2][4] 。また、2008年にはアブドゥッラー2世は「ヨルダンはヨルダンであり、パレスチナはパレスチナである。パレスチナの領土における独立国家の存在は、パレスチナ人の権利であり、パレスチナ人が彼らの郷土ではない代替地をそもそも受け入れることはないであろう。」と述べて、ヨルダンにおける懸念をあらためて表明し、イスラエルとパレスチナ間の二国間協議による解決を求めた[2]。2013年12月、ジョン・ケリー米国務長官はこのプランに基づいた仲介をベンヤミン・ネタニヤフ首相に申し出ている[5]。
1980年のアロンの死後、イスラエルはアロン・プランで定めた境界線を大幅に上回るユダヤ人入植地を強行に進めている[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 飛奈裕美「<論考> 中東和平を分断する分離壁 : イスラエル・パレスチナ間自治交渉と西岸地区の将来的選択肢」『イスラーム世界研究』第3巻第1号、京都大学イスラーム地域研究センター、2009年7月、325-347頁、CRID 1390572174792797568、doi:10.14989/87448、hdl:2433/87448、ISSN 1881-8323、2024年7月4日閲覧。
- ^ a b c 江﨑智絵「特集:パレスチナ和平プロセスの争点 中東和平におけるヨルダンにとってのパレスチナ難民問題」『現代の中東』第48巻、日本貿易振興機構アジア経済研究所、2010年1月、52-61頁、CRID 1390572176308607104、doi:10.20561/00028811、hdl:2344/00005702、ISSN 09128107、2024年7月4日閲覧。
- ^ 役重善洋「「中東民衆革命」と対パレスチナ援助 : 「平和と繁栄の回廊」構想の挫折と新しい市民連帯」『プライム』第34号、明治学院大学国際平和研究所、2011年10月、35-42頁、CRID 1050282814199231872、hdl:10723/1039、ISSN 1340-4245、2024年7月4日閲覧。
- ^ Reuven Pedatzur (2007年7月25日). “The 'Jordanian option,' the plan that refuses to die” (English). HAARETZ 2014年1月18日閲覧。
- ^ “What Are We Thinking?” (English). Israel National News. (2013年12月26日) 2014年1月18日閲覧。