アントイネッテ・フォン・ザクセン=アルテンブルク
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アントイネッテ・フォン・ザクセン=アルテンブルク Antoinette von Sachsen-Altenburg | |
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アンハルト公妃 | |
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在位 | 1871年 - 1904年 |
出生 |
1838年4月17日 バイエルン王国、バンベルク |
死去 |
1908年10月3日(70歳没) バイエルン王国、ベルヒテスガーデン |
結婚 | 1854年4月22日 |
配偶者 | アンハルト公フリードリヒ1世 |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ヴェッティン家エルンスト系 |
父親 | エドゥアルト・フォン・ザクセン=アルテンブルク |
母親 | アマーリエ・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン |
アントイネッテ・フォン・ザクセン=アルテンブルク(Antoinette von Sachsen-Altenburg, 1838年4月17日 - 1908年10月3日)は、ドイツのザクセン=アルテンブルク家の公女で、アンハルト公フリードリヒ1世の妻。全名はアントイネッテ・シャルロッテ・マリー・ヨゼフィーネ・カロリーネ・フリーダ(Antoinette Charlotte Marie Josephine Karoline Frida von Sachsen-Altenburg)。
生涯
[編集]ザクセン=アルテンブルク公子エドゥアルトとその最初の妻でホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯カールの娘であるアマーリエ(1815年 - 1841年)の間の第2子、次女として生まれた。1854年4月22日にアルテンブルクにおいてフリードリヒと結婚した。この縁組はドイツの諸侯家門同士の政略結婚で、アントイネッテにとっては最も裕福な諸侯の1人に嫁ぐことが出来る良縁であった。公爵夫妻の結婚式に際しては、記念メダルが発行された。1892年、嫁のマリーとともにアンハルト公国の教会婦人奉仕団施設を開いた[1]。公爵夫人の名前を冠したものには、ゼルケ川河畔のアントイネッテ歩道(Antoinettenweg)、デッサウのアントイネッテ通り(Antoinettenstraße)およびアントイネッテ高等学校(Antoinettenlyzeum)[2] がある。
子女
[編集]夫との間に4男2女の6人の子女をもうけた。
- レオポルト・フリードリヒ・フランツ・エルンスト(1855年 - 1886年)
- レオポルト・フリードリヒ・エドゥアルト・カール・アレクサンダー(1856年 - 1918年) - アンハルト公
- エリーザベト・マリー・フリーデリケ・アメーリエ・アグネス(1857年 - 1933年) - 1877年、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公アドルフ・フリードリヒ5世と結婚
- エドゥアルト・ゲオルク・ヴィルヘルム・マクシミリアン(1861年 - 1918年) - アンハルト公
- アリベルト・ヨーゼフ・アレクサンダー(1866年 - 1933年)
- アレクサンドラ・テレーゼ・マリー(1868年 - 1958年) - 1897年、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯子ジッツォと結婚
参考文献
[編集]- Ferdinand Siebigk: Das Herzogthum Anhalt: Historisch, geographisch u. statistisch, Desbarats, 1867, S. 102 (Digitalisat)
脚注
[編集]- ^ http://www.ada-dessau.de/content/view/39/61/
- ^ in Goethe-Oberschule II umbenannt