アントワーヌ=レオナール・ド・シェジー
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アントワーヌ=レオナール・ド・シェジー(Antoine-Léonard de Chézy、1773年1月15日 - 1832年8月31日)は、フランスの東洋学者。コレージュ・ド・フランスの初代サンスクリット教授で、インドの古典を数多くフランス語に翻訳した。
略歴
[編集]シェジーは、水理技術者として有名なアントワーヌ・ド・シェジーの子として、ヌイイ=シュル=セーヌで生まれた。はじめ父の仕事をついで技術者になろうとしていたが、東洋に興味を持ち、シルヴェストル・ド・サシやラングレスからアラビア語やペルシア語を学んだ[1][2]。1799年から国立図書館の写本部門で仕事をしていたが、そこでサンスクリット写本に魅せられ、サンスクリットを独習した。
1805年にドイツ人の文学者ヴィルヘルミネ・フォン・クレンケ(ヘルミーナ・フォン・シェジー)と結婚したが、5年後に離婚した[1]。ヘルミーナは『オイリアンテ』の台本や『キプロスの女王ロザムンデ』の作者として名高い。
1815年にコレージュ・ド・フランスにサンスクリットの講座が設けられ、シェジーはその初代教授に就任した。
シェジーは碑文アカデミーの会員で、アジア協会の創立者のひとりだった。1832年にコレラに罹患して死亡した[3]。
主な業績
[編集]シェジーは多数の翻訳で知られる。
- Medjnoun et Leïla. Paris: Imprimerie de Valade. (1807)(ジャーミー『ライラとマジュヌーン』)
- Yadjnadatta-badha, ou la mort de Yadjnadatta. Paris: Imprimerie de P. Didot L'Ainé. (1814)(『ラーマーヤナ』中の挿話。のち1826年に校訂本文と訳注の形式で出版)
- La reconnaissance de Sacountala. Paris: Librairie orientale de Dondey-Dupré et fils. (1830)(カーリダーサ『シャクンタラー』)
- Anthologie érotique d'Amarou. Paris: Dondey-Dupré père et fils, imp.-lib.. (1831)(『アマルシャタカ』の校訂本文と訳注)
脚注
[編集]- ^ a b カトリック百科事典
- ^ Michaud (1836) p.594
- ^ Marie-Nicolas Buillet, ed (1867). Dictionnaire universel d'histoire et de géographie. 1 (20th ed.). Paris: Libraire de L. Hachette. p. 406
参考文献
[編集]- Chézy, Antoine Léonard de(ブリタニカ百科事典第11版、1911年)
- Antoine-Léonard de Chézy(カトリック百科事典、1913年)
- Michaud, Louis-Gabriel, ed (1836). “CHÉZY (Antoine-Léonard de)”. Biographie universelle, ancienne et moderne. Supplément. 60. Paris. pp. 594-600