アンナ・フォン・オストフリースラント
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アンナ・フォン・オストフリースラント Anna von Ostfriesland | |
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プファルツ選帝侯妃 | |
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在位 | 1583年7月12日 - 10月22日 |
出生 |
1562年6月26日 神聖ローマ帝国 オストフリースラント伯領、アウリッヒ |
死去 |
1621年4月21日(58歳没) ボヘミア王国、ノイハウス(現インドルジフーフ・フラデツ) |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 プファルツ選帝侯領、ハイデルベルク、聖霊教会 |
結婚 |
1583年7月12日 ハイデルベルク 1585年12月21日 1617年3月7日 グラボー |
配偶者 | プファルツ選帝侯ルートヴィヒ6世 |
バーデン=ドゥルラハ辺境伯エルンスト・フリードリヒ | |
ザクセン=ラウエンブルク公ユリウス・ハインリヒ | |
家名 | ツィルクセナ家 |
父親 | オストフリースラント伯エッツァルト2世 |
母親 | カタリーナ・ヴァーサ |
アンナ・フォン・オストフリースラント(ドイツ語:Anna von Ostfriesland, 1562年6月26日 - 1621年4月21日)は、3度の結婚により、プファルツ選帝侯妃、バーデン=ドゥルラハ辺境伯妃、およびザクセン=ラウエンブルク公妃となった。
生涯
[編集]アンナはオストフリースラント伯エッツァルト2世とカタリーナ・ヴァーサの2番目の子供である。アンナには9人のきょうだいがいた。
1583年7月12日にハイデルベルクにおいて、アンナはプファルツ選帝侯ルートヴィヒ6世と結婚した。ルートヴィヒ6世はその1年前に最初の妃を失っていた。この結婚から数ヶ月後にルートヴィヒ6世が死去し、2人の間に子供はいなかった[1]。ルートヴィヒ6世の死から2年後の1585年12月21日に、アンナはルートヴィヒ6世の被後見人であったバーデン=ドゥルラハ辺境伯エルンスト・フリードリヒと再婚した。この結婚でも子供は生まれなかった。1617年3月7日にグラボーでザクセン=ラウエンブルク公ユリウス・ハインリヒと3度目の結婚をしたが、この結婚でも子供は生まれなかった。アンナは1621年4月21日にボヘミアのノイハウス(現インドルジフーフ・フラデツ)で死去した。ハイデルベルクの聖霊教会の最初の夫ルートヴィヒ6世の隣に埋葬されたが、大同盟戦争時の火事と略奪の後に墓は失われた[2]。
脚注
[編集]- ^ Bayerische Akademie der Wissenschaften (Hrsg.): Abhandlungen der historischen Classe der königlich bayerischen Akademie der Wissenschaften. Band 1. Mich. Landauer, München 1833, S. 78.
- ^ Christian Haeutle: Genealogie des Erlauchten Stammhauses Wittelsbach: von dessen Wiedereinsetzung in das Herzogthum Bayern (11. Sept. 1180) bis herab auf unsere Tage. Manz, München 1870, S. 55.