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アンブラキア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンブラキア
Ἀμβρακία
アンブラキア(現在のアルタ)に残る救世神アポローン・ピューティアの神殿。
アンブラキアの位置(ギリシャ内)
アンブラキア
アンブラキア
アンブラキアの位置
アンブラキア湾の地図。アンブラキアは画面中央上。
所在地 イピロスアルタ県
座標 北緯39度09分29秒 東経20度59分13秒 / 北緯39.15806度 東経20.98694度 / 39.15806; 20.98694座標: 北緯39度09分29秒 東経20度59分13秒 / 北緯39.15806度 東経20.98694度 / 39.15806; 20.98694
種類 救世神アポローン・ピューティア神殿
小劇場、市壁
歴史
時代 古代ギリシア古代ローマ
ビザンティン帝国時代
アンブラキアの前340年頃の貨幣。

アンブラキア古希: Ἀμβρακία, Ambrakia)は、古代ギリシアエペイロス地方の都市である。アムブラキアとも表記される。現在のアルタにあたる。コリントスによるドーリス系植民都市であり、アンブラキア湾の北岸から約11km、アラクトス川が大きく曲がったところにある、樹木が生い茂る肥沃な平原の中央に位置している。

歴史

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ストラボンによると、アンブラキアはコリントスの僭主キュプセロスとその息子ゴルゴス(Gorgos)によって、アナクトリオンとともに紀元前650年から625年の間に建設された[1]。当時の経済は農業、漁業、造船用の木材、エペイロス地方の農産物の輸出に基づいていた[2]。ゴルゴスの息子ペリアンドロス(Perianderos)の追放後、アンブラキアの政治体制は強力な民主主義国家に発展した。初期のアンブラキアはコリントスのエペイロス貿易における集散地として機能したと思われる。その政策はコリントスへの忠誠と、同じくコリントスの植民都市でありながら母市に対して反抗的だったコルキュラ(現代のコルフ)への嫌悪感、そしてアンピロキア人およびアカルナニア人との国境をめぐる多くの紛争によって決定された。したがって、ペルシア戦争の際にはレウカスとともに遠方からサラミスの海戦に参戦し[3][4]プラタイアの戦いでは500の兵力を送った[5]。コリントスとコルキュラが戦った前433年のシュボタの海戦ではコリントス側で参戦し[6]、前432年にアンピロキア・アルゴス英語版を占拠、そして前426年のイドメネの戦い英語版アテナイに壊滅的な敗北を喫するまで、ペロポネソス戦争で重要な役割を果たした[6]

前4世紀のアンブラキアは伝統的な政策を継続していたが、前338年にマケドニアピリッポス2世によって都市を攻囲された。コリントスとアテナイの援助で、アンブラキアはピリッポス2世による完全な支配を免れたが、マケドニアの守備隊の受け入れを余儀なくされた[2]。その後、宗主国マケドニアの下で43年間の半自治が認められた後、前294年にカッサンドロスの息子によってエペイロス王ピュロスに与えられた。するとピュロスはアンブラキアを首都とし、宮殿、神殿、劇場といった記念碑的建築物を建設してその美しさを際立てさせた[6][7]。前220年から前205年にかけてのマケドニア王ピリッポス5世アイトリア同盟の戦いで、アンブラキアは一方の同盟から他の同盟に移り、最終的に後者の同盟に加わった。アンブラキアが執政官マルクス・フルウィウス・ノビリオルの攻撃を受けたのは前189年である。アンブラキアはローマ人の坑道戦に対して、有毒ガスの使用を含む[8]頑強な籠城戦に耐えたが、最終的にマルクス・フルウィウス・ノビリオルに占領・略奪され[6]、多くの美術品がローマに持ち去られた[7]

その後、アンブラキアはローマによって「自由都市」と宣言され、徐々に重要性を失って行き[2][6]アウグストゥスニコポリス英語版の建設によって都市は荒廃した。それから約1100年後の東ローマ帝国時代にアンブラキアはアルタの名前で呼ばれるようになり、1204年のコンスタンティノープル陥落によってエピロス専制侯国の首都となった。アルタの市街地近くの大きく見栄えの良い石材を用いたいくつかの断片的な壁は、アンブラキアの初期の繁栄を示している[6]

神話

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ギリシア神話によるとアンブラキアの名前の由来はいくつかの説があり、アポロンの子メラネウスの子アムブラキアス[9]、あるいはヘリオスの息子ポルバスの娘アムブラキアと言われる[10][11]。いくつかの文献は神々がアンブラキアをめぐって争ったことを伝えている[9][12]アントニヌス・リベラリスによると、アポロン、アルテミスヘラクレスがアンブラキアをめぐって争い、ドリュオペス地方に住むクラガレウスに判定してもらった結果、ヘラクレスが勝利した[9]

人物

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芸術家

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スポーツ選手

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  • アンブラキアのソプロン(Sophron of Ambracia) - 前432年のオリュンピア競技祭スタディオン走者
  • アンブラキアのトラシマコス(Tlasimachus of Ambracia) - 前296年のオリュンピア競技祭の戦車競走の競技者。
  • アンブラキアのアンドロマコス(Andromachus of Ambracia) - 前60年のオリュンピア競技祭のスタディオン走者。

その他

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ギャラリー

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脚注

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  1. ^ ストラボン、10巻2・8。
  2. ^ a b c Hammond 1996, "Ambracia".
  3. ^ ヘロドトス、8巻45。
  4. ^ ヘロドトス、8巻47。
  5. ^ ヘロドトス、9巻28。
  6. ^ a b c d e f Caspari 1911, pp.797–798 "Ambracia".
  7. ^ a b Αμβρακία, Ιστορικό”. Odysseus Ministry of Culture and Sports. 2022年5月8日閲覧。
  8. ^ ポリュビオス、21巻28。
  9. ^ a b c アントニヌス・リベラリウス、4話。
  10. ^ ビューザンティオンのステパノス英語版「Ambrakia」の項。
  11. ^ ビューザンティオンのステパノス「Dexamenai」の項。
  12. ^ オウィディウス『変身物語』13巻713行以下。
  13. ^ Αμβρακία, Τα Μνημεία του Χώρου”. Odysseus Ministry of Culture and Sports. 2022年5月8日閲覧。
  14. ^ Αρχαιολογικό Μουσείο Άρτας, Περιγραφή”. Odysseus Ministry of Culture and Sports. 2022年5月8日閲覧。

参考文献

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  • アントーニーヌス・リーベラーリス『ギリシア変身物語集』安村典子訳、講談社文芸文庫(2006年)
  • オウィディウス変身物語(下)』中村善也訳、岩波文庫(1984年)
  • ストラボンギリシア・ローマ世界地誌』飯尾都人訳、龍溪書舎(1994年)
  • ヘロドトス歴史(下)』松平千秋訳、岩波文庫(1972年)
  • Nicholas Geoffrey Lemprière Hammond, "Ambracia", in Hornblower, Simon; Spawforth, Anthony (eds.), Oxford Classical Dictionary (3rd ed.), Oxford: Oxford University Press, 1996. ISBN 0-19-521693-8
  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Caspari, Max Otto Bismarck (1911). "Ambracia". In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 1 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 797–798.

関連項目

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