アンリエット・ピュイグ=ロジェ
アンリエット・ピュイグ=ロジェ Henriette Puig-Roget | |
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生誕 | 1910年1月9日 |
出身地 | フランス・コルシカ島バスティア |
死没 |
1992年11月24日(82歳没) フランス、パリ |
学歴 | パリ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ピアニスト・オルガニスト・作曲家・音楽教育者 |
担当楽器 | ピアノ |
アンリエット・ピュイグ=ロジェ(Henriette Puig-Roget, 1910年1月9日 - 1992年11月24日[1])はフランスのピアニスト・オルガニスト・作曲家・音楽教育者[2][3]。1979年に来日し、1991年まで日本で教育と演奏活動を行った[4]。
経歴
[編集]パリ音楽院修了まで
[編集]1910年1月9日にフランス領コルシカ島のバスティアで、父アンリ・ロジェ将軍と、母ジャンヌ・トマの長女に生まれる[5]。戸籍名はアンリエット・マリ・ユラリ・ロジェ(Henriette Marie Eulaile Rojet)、洗礼名はヴァレリ(Valérie)であった[5]。1915年にパリでピアノとソルフェージュを学び始める[4]。1919年にパリ音楽院に進み、1926年にイシドール・フィリップのピアノ科で1等賞(プルミエ・プリ)を得る[4]。1927年にはジャン・ギャロンの和声科、モーリス・エマニュエルの音楽史科、アベル・エティルのピアノ伴奏科で1等賞、翌1928年にはノエル・ギャロンの対位法・フーガ科で1等賞、1930年にはマルセル・デュプレのオルガン科でオルガンと即興演奏の1等賞を獲得した[4]。また、シャルル・トゥルヌミールに室内楽を師事する[6]。1931年にはサン・クロティルド教会でシャルル・トゥルヌミールの補助オルガニストを務める[4]。
1933年にローマ大賞2等賞第1席となり、翌1934年にも同じくローマ大賞2等賞第1席となったが、この時は大賞するべきところを一部の審査員の思惑で、男性作曲家が大賞を受賞している[4][7]。この年アンリ・ビュセールの作曲科で2等賞を得、7月にパリ音楽院を修了[4]。
フランスでの活躍
[編集]1934年8月からパリ大シナゴーグ(~1952年)とルーヴル・オラトリオ修道会(~1979年)のオルガニストに指名される[4][3]。1936年以降、フランス放送協会のピアニスト、オルガニスト、プログラム詮衝委員会初見視奏者として活躍する一方、パリ・オペラ座のシェフ・ド・シャン(歌手をサポートする音楽家)を務める[4]。1936年には後に夫となるバルセロナ出身の建築家ラモン・ピュイグ=ヴィニャルス(Ramon Puig-Vinyals)と出会っている[8]。
1940年、第二次世界大戦の戦火を避けマルセイユに移住し、12月にラモン・ピュイグ=ヴィニャルスと結婚、以降アンリエット・ピュイグ=ロジェと名乗る[4]。その後1944年にはパリにもどり、放送局の仕事も1975年まで続け、1945年から1950年までエトワール紙、レットル・フランセーズ紙などで音楽批評を担当している[4]。パリ・オペラ座の仕事を1957年に辞めた後、パリ音楽院ピアノ伴奏科の教授に満場一致で決まり、ナディア・ブーランジェの後任として多くの弟子を指導する[9]。
ソリストとしてはフランス国立放送管弦楽団やコロンヌ管弦楽団、パリ音楽院協会管弦楽団などと共演しており、音源としては、マルカントワーヌ・シャルパンティエやドラランド、ベルニエ、リュリやサン=サーンス、フォーレ、ドビュッシー、アレハンドロ・ガルシア・カトゥーラやアマデオ・ロルダンらの作品の演奏を残している。
1975年にはモーリス・ラヴェル生誕100年記念国際コンクールの審査員を務める[4]。1978年に夫を亡くし、パリ音楽院の定年を迎えるが、1年延期される[4]。1979年パリ音楽院教授を退職し、同院名誉教授となる[4]。
日本での活躍
[編集]1979年に教え子の永冨正之らの尽力で来日し、東京藝術大学にてソルフェージュ講座に籍をおき、声楽、ピアノ、オルガン、室内楽の分野で1991年まで客員教授として教鞭を執った[10][1]。外国人教師の在職期間は通常は2年から4年であるが、ピュイグ=ロジェは教師としての圧倒的な力量が評価され、本人も希望したことで異例の長期滞在となった[11]。また1980年には桐朋学園大学外国人特別講師(1990年まで)、1981年には武蔵野音楽大学、エリザベト音楽大学、神戸女学院大学(いずれも1991年まで)にて非常勤講師を務めた[4]。1990年には桐朋学園大学名誉客員教授の称号を受けている[4]。
教壇に立つ一方で12年間に200回を超す演奏会に出演し、主に室内楽とピアノ伴奏の舞台を務めた[12][13]。共演者にはソプラノの嶺貞子、フルートの三上明子、ヴァイオリンの田島まり子などがいる[12]。嶺貞子との演奏では1985年度文化庁芸術祭賞を受賞している[12]。
晩年と没後
[編集]ピュイグ=ロジェは1991年3月に芸大を退官し、次の専任先の国立音楽大学の宿舎に移り、年末まで住んだ[14]。12月に宿舎で転んで捻挫し、その後の血液検査で白血病が発覚、治療のため年末にフランスへ帰国した[15]。パリでは自宅アパルトマンで療養の静かな日々を過ごし、1992年11月24日に自宅で息を引き取った[16]。葬儀は11月30日に音楽葬で行われた[16]。
1993年には追悼演奏会が日本とフランスで計7回開催され、ピュイグ=ロジェの作品が演奏されている[17]。またパリ音楽院の366講義室(声・歌の伴奏室)にはピュイグ=ロジェの名前が冠せられ、1994年からは彼女が寄贈した楽譜が公開されている[17]。
2003年1月25日には没後10年を記念した演奏会が東京芸術大学奏楽堂で開催され、ピュイグ=ロジェおよびメシアンとラヴェルの作品が演奏された[17]。また記念企画として、ピュイグ=ロジェの遺稿やインタビュー、弟子たちの言葉をまとめ、作品や演奏会の記録、略年譜を付した『ある「完全な音楽家」の肖像:マダム・ピュイグ=ロジェが日本に遺したもの』が音楽之友社から出版され、長女ポリーヌ・ピュイグが序文を寄せている[18][19]。
主要な門人
[編集]ジルベール・アミ、アラン・ルヴィエ、ダニエル・ロト、永冨正之、野平一郎、藤井一興、田隅靖子、滑川真希、坂戸真美、根本雄伯。
主な作品
[編集]主要な作品に、管弦楽曲、室内楽曲、宗教音楽、オルガン曲『葬送行進曲』(Cortège funèbre )、『厳粛なトッカータ』(Toccata severa )、『聖週間の詠嘆』(Deploracion de la semana santa )など。日本では、子供向けの連弾曲が出版されている。
栄誉
[編集]来日後に次の栄誉を日仏双方から受けている[4]。
- 1982年 レジオン・ドヌール勲章(仏)
- 1986年 1985年文化庁芸術祭賞(日)、アンドレ・マルロー文学芸術功労賞(仏)
- 1988年 モービル音楽賞[20](日)
- 1989年 勲三等瑞宝章(日)
参考文献
[編集]- アンリエット・ピュイグ=ロジェ 著、船山信子 編『ある「完全な音楽家」の肖像 : マダム・ピュイグ=ロジェが日本に遺したもの』音楽之友社、2003年2月。ISBN 4-276-20137-3。[19]
脚注
[編集]- ^ a b 『東京芸術大学百年史 音楽学部篇』音楽之友社、2004年3月、1285頁。ISBN 4-276-00616-3。
- ^ 『クラシック音楽事典』平凡社、2001年7月、307頁。ISBN 4-582-12717-7。
- ^ a b 『演奏家大事典』音楽鑑賞教育振興会、1982年7月、299-300頁 。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「アンリエット・ピュイグ=ロジェ略年譜」『ある「完全な音楽家」の肖像』巻末資料 p48-49
- ^ a b アンリエット・ピュイグ=ロジェ 著、船山信子 編『ある「完全な音楽家」の肖像 : マダム・ピュイグ=ロジェが日本に遺したもの』音楽之友社、2003年2月、304-305頁。ISBN 4-276-20137-3。
- ^ 『ある「完全な音楽家」の肖像』p308
- ^ 『ある「完全な音楽家」の肖像』p309-311
- ^ 『ある「完全な音楽家」の肖像』p316
- ^ 『ある「完全な音楽家」の肖像』p317
- ^ 『ある「完全な音楽家」の肖像』p279-281
- ^ 『ある「完全な音楽家」の肖像』p320-321
- ^ a b c 『ある「完全な音楽家」の肖像』p324-325
- ^ 「日本における演奏会記録」『ある「完全な音楽家」の肖像』巻末資料 p21-39
- ^ 『ある「完全な音楽家」の肖像』p323
- ^ 『ある「完全な音楽家」の肖像』p325-326
- ^ a b 『ある「完全な音楽家」の肖像』p327
- ^ a b c 『ある「完全な音楽家」の肖像』p329-331
- ^ 『ある「完全な音楽家」の肖像』p336-340
- ^ a b “ある「完全な音楽家」の肖像”. 音楽之友社. 2023年1月13日閲覧。
- ^ “音楽賞洋楽部門本賞 歴代受賞者リスト|児童文化賞・音楽賞|ENEOSホールディングス”. ENEOSホールディングス. 2023年1月13日閲覧。