アーバー島
アーバー島(الجزيرة أبا, Jazīrat Ābā)は、ハルトゥームから150キロメートルほど白ナイル川を遡ったところにある川中島[1]。現在はスーダン共和国領であり白ナイル州に属す[1]。マフディー運動のまさに震源地となった島であり、後のウンマ党の精神的根拠地となった島である。島の中にカバー(Qabā)、ラフマーニーヤ(Raḥmāniya)という町がある。ラフマーニーヤはさらに内部にいくつかの行政上区別される街区を持つ。
歴史
[編集]1871年(ヒジュラ暦1288年)にムハンマド・アフマド・ブン・アブドゥッラーがこの島に住み着き、1881年(ヒジュラ暦1299年)にこの島のモスクで「召命を受けた」とされる[1][2]。同年に植民地政府がムハンマド・アフマドの逮捕のためにアーバー島に派兵したが、撃退された(アーバー島の戦い)[1]。
1920年代には毎年ラマダーン月になると5000人から15000人の巡礼がアーバー島に集まり、アブドゥッラフマーン・マフディー(1885–1959) と共にラマダーン明けを祝った[3]:89。巡礼たちはアブドゥッラフマーンが預言者イーサーの再臨であると信じ、彼がキリスト教徒の植民者たちを追い払ってくれると考えていた[3]:89。イギリスの植民地当局者は、アーバー島のアブドゥッラフマーンがナイジェリアやカメルーンの宗教指導者の代理人と書簡を交わしており、その書簡の中に「マフディーへのアンサールが最終的にキリスト教徒に対し勝利を収める」などという文言があったとして、アブドゥッラフマーンを非難した[3]:89。1924年には西アフリカからアーバー島に来た巡礼が大規模な示威活動を行った[3]:89。
1969年にはハルトゥームに成立したガアファル・ニメイリー政権へのアンサールの抗議運動がアーバー島で激しくなった[4]。これへの返答としてニメイリーはアーバー島を空爆した[4]。この空爆には若きホスニー・ムバーラク率いるエジプト空軍が関与していたと言われている[4]。アンサール側は12000人が殺害され、その中にはサーディク・マフディーの叔父も含まれていた[4]。
出典
[編集]- ^ a b c d القاموس الإسلامي، أحمد عطية الله - المجلد الأول، ص5. نشر مكتبة النهضة المصرية
- ^ 栗田, 禎子「マフディー運動の史的再検討 : 19世紀エジプト領スーダンにおける「奴隷交易問題」の分析を通じて」『アジア・アフリカ言語文化研究』第36号、1988年9月30日、doi:10.15026/21756、ISSN 03872807。
- ^ a b c d Warburg, Gabriel (2003). Islam, Sectarianism and Politics in Sudan Since the Mahdiyya. Univ of Wisconsin Press. ISBN 0-299-18294-0
- ^ a b c d Sudan: Darfur and the Failure of an African State. London: New Haven Press. (2010) 2018年3月7日閲覧。 p. 63