アーミナ・ビント・ワフブ
アーミナ・ビント・ワフブ(Amina bt. Wahb al-Zuhriyya, c. 549–577)は、6世紀アラビアの女性。イスラームの預言者ムハンマドの実母[1]。クライシュ部族のズフラ氏族の出身。
アーミナは、ワフブ・イブン・アブドマナーフを父とし、バッラ・ビント・アブドゥルウッザーを母として、メッカに生まれた。アーミナから父系を直列にさかのぼって3代前(アブドマナーフの父、アーミナにとって曽祖父)のズフラという人は、のちにアーミナの夫となるアブドゥッラー・イブン・アブドゥルムッタリブの父系先祖であるクサイイという人の兄であり、カアバ神殿の管理権をクライシュ族ではじめて獲得した有力者である。アブドゥルムッタリブは末の息子アブドゥッラーをズフラ氏族の娘アーミナに結婚させることを考え、アーミナの父ワフブにそのことを持ちかけた。ワフブは承諾し、結婚が成立したとされる。他の一説では、アブドゥルムッタリブが縁談を持ち掛けたのはアーミナの監護権を持つ伯父のウハイブ Wuhaib であったともされる[2][3]。ふたりはすぐに結婚した[3]。アーミナは妊娠したが、アブドゥッラーはアーミナの妊娠期間中、隊商を率いて遠距離交易の旅に出ており、ほとんど家にいなかった。そして息子の誕生する前にヤスリブで病死した[3]。
夫アブドゥッラーの病死後、3か月ほどのちにアーミナは男の子を産んだ(西暦570年から571年の間)。「ムハンマド」と名付けられたその男子は、当時の高貴な生まれの人々の慣習に従って、乳母に育てられた。アーミナはムハンマドを沙漠のベドウィンのもとへ送った。乳母はハワーズィン部族のサアド氏族に属するハリーマ・ビント・アビー・ズアイブというベドウィンの女性である[4]。当時のアラビアでは、自律と高貴な人格、自由は沙漠でこそ培われると信じられていた。
ムハンマドが6歳になったとき、アーミナはムハンマドに再会し、親戚の多いヤスリブに連れて行った。1か月後、自身が所有する奴隷ウンム・アイマンを伴ってメッカに戻る際、アーミナは病気になり、577年あるいは578年ごろに亡くなった[5]。アブワーウ村に葬られたが、墓地は1998年に破壊された[6][7]。幼いムハンマドは父方祖父のアブドゥルムッタリブが養育した(さらにそののちには叔父のアブー・ターリブが養育者になる)[3]。
イスラーム教の来世観は個人主義的である。来世(アーヒラ)は各人の行いに応じて決まる。血統が来世に影響するという考えは批難される。「預言者ムハンマドの父母が火獄(ジャハンナム)にいる」と預言者自身が述べていると解釈可能な真正ハディースが複数、存在する(サヒーフ・ムスリム 1:406, 11:135)。
ムハンマドの父母がどのような信仰を持ち、なにを実践してきたかについて、また、彼らの来世の運命について、イスラーム教徒の学者は古来、議論を続けてきたが、統一された見解はない[8]。アブー・ダーウードとイブン・マーッジャが伝えるハディースではアッラーはアーミナの不信仰(クフル)を寛恕しないとされている一方で、アブー・バクル・バッザールが伝えるハディースではムハンマドの両親は生き返りバルザフへ戻る前にイスラームに改宗したともされている[9]:11。イスラームの神学には「アフルル・ファトラ」という概念があり、預言者イーサーとムハンマドの時代の間に生きた人々のことをいう。アシュアリー派とシャーフィイー派の学者の中には、このアフルル・ファトラに該当する人々はだれも来世で罰を受けることはないと主張する学者もいる[10]。ただし「アフルル・ファトラ」概念は必ずしも、イスラーム教徒の学者ならだれでも受け入れている概念であるとは言えず、多神信仰(シルク)の積極的実践者に救済はどの程度ありうるのかという問題については議論がある[11]。イスラーム教徒の学者の大多数は、この問題について意見が分かれていることについて合意に達している一方で、ムハンマドの両親が火獄で苦しめられていると述べるハディースの存在には無視を決め込んでいる[8]。
アブー・ハニーファの作とされている著作の中には、ムハンマドの両親が死後、火獄で苦しめられている(Mata 'ala al-fitrah)と述べているものがある[12]。それよりも新しい「マウリド文献」と呼ばれる文献の中には、彼らは一時的に生き返り、イスラームに改宗したというハディースを伝えるが、イブン・タイミーヤはこの伝承を虚偽と断じる(クルトゥビーによればこの伝承は神学と調和しない)[10]。16世紀のアリー・カーリーによれば、ムハンマドの両親は二人ともイスラーム教徒だったとみなすのが望ましい[9]:28。スユーティーやイスマーイール・ハッキー・ブルーサウィー(17世紀)などの学者は、ムハンマドの両親に関するハディースに示されている「彼らが許されていない」という神意は、のちに彼らに命が再び与えられ、彼らがイスラームを受け容れたときに廃棄(ナスフ)されたと考えている[9]:24。以上のようなスンナ派の学説に対して、シーア派のハディースにはアッラーは地獄の炎がムハンマドの両親のいずれにも触れることを禁じていると述べているものがある。シーア派には、アーミナを含むムハンマドの先祖はすべて、一神教徒であり天国に入ると信じられている[13]。
出典
[編集]- ^ Al-A'zami, Muhammad Mustafa (2003). The History of The Qur'anic Text: From Revelation to Compilation: A Comparative Study with the Old and New Testaments. UK Islamic Academy. pp. 22–24. ISBN 978-1-8725-3165-6
- ^ Muhammad Shibli Numani; M. Tayyib Bakhsh Badāyūnī (1979). Life of the Prophet. Kazi Publications. pp. 148–150
- ^ a b c d Ibn Ishaq Alfred Guillaume訳 (1955). Ibn Hisham. ed. Life of Muhammad. Oxford University Press. pp. 68–79
- ^ "Muhammad: Prophet of Islam". Encyclopædia Britannica.
- ^ Peters, F. E. (1994). Muhammad and the Origins of Islam. Albany, New York, the U.S.A.: State University of New York Press. ISBN 0-7914-1876-6
- ^ Daniel Howden (18 April 2006). “Shame of the House of Saud: Shadows over Mecca”. The Independent. オリジナルの2016年7月27日時点におけるアーカイブ。 5 November 2018閲覧。
- ^ Ondrej Beranek (2009年). “From Visiting Graves to Their Destruction: The Question of Ziyara through the Eyes of Salafis” (Crown Paper). Brandeis University. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ a b Brown, Jonathan A.C. (2015). Misquoting Muhammad: The Challenge and Choices of Interpreting the Prophet's Legacy. Oneworld Publications. pp. 188-189
- ^ a b c Mufti Muhammad Khan Qadri, The Parents of the Prophet Muhammad were Muslims, Suffah Foundation, pp. 11–28
- ^ a b Holmes Katz, Marion (2007). The Birth of The Prophet Muhammad: Devotional Piety in Sunni Islam. Routledge. p. 126-128. ISBN 978-1-1359-8394-9
- ^ Rida, Rashid. “2:62”. Tafsir al-Manar. pp. 278–281. オリジナルの2018-11-05時点におけるアーカイブ。 2018年11月6日閲覧。
- ^ Dr. `Inayatullah Iblagh al-Afghanistani, Refuting the Claim that Imam Abu Hanifa was of the opinion that the Prophet’s Parents were Kafirs, Masud
- ^ Rubin, Uri (1975). “Pre-Existence and Light—Aspects of the Concept of Nur Muhammad”. Israel Oriental Studies 5: 75–88.