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イェシェー・リンチェン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イェシェー・リンチェン(Ye shes rin chen、1248年 - 1294年)は、チベット仏教サキャ派仏教僧大元ウルスにおける4代目の帝師を務めた。

漢文史料の『元史』では亦摂思連真(yìshèsī liánzhēn)と表記される。

概要

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フゥラン・テプテル』によると、サキャ・パンディタパクパの弟子にはシャル(Shar/東)、ヌプ(Nub/西)、クン(Gun/中間)という三派があり、その内シャル派に属するチュポジェツンキャプ(Phyug po rje btsun skyabs)の息子がイェシェー・リンチェンであったという[1]。イェシェー・リンチェンは臨洮に滞在していたパクパを迎えるために派遣されたが、パクパとともに大元ウルス朝廷を訪れてセチェン・カアン(世祖クビライ)に気に入られ、やがて帝師になったとされる[1]。これに対応するように、漢文史料の『元史』には至元23年(1286年)に「亦摂思連真(イェシェー・リンチェン)」が「帝師と為った」と記される[2][3]

大元ウルスにおける仏教の統括者たる帝師は、初代パクパから第3代ダルマパーラ・ラクシタに至るまではサキャ派の中核氏族たるコン氏出身者が務めているが、第4代帝師のイェシェー・リンチェンはコン氏の出身ではない。これは、この頃クビライによる周辺諸国への干渉が強まる中で、チベットに対してもコン氏の人間を大元ウルス領内に留め置くことで統制を強化するという政策が行われ、その結果チベット本国にコン氏の男子がいなくなってしまったためと考えられている[4]。なお、『フゥラン・テプテル』にはヌプ(Nub/西)派はパクパとクンガ・サンポが対立した際(クンガ・サンポの乱)にクンガ・サンポ側に味方し、クンガ・サンポが敗者となるとヌプ派の座主はマンジ(=江南地方)に流刑になったと記されており、シャル派はこのサキャ派内部の対立でパクパに味方したが為に地位が向上し帝師を輩出するに至ったものとみられる[5]

『元史』釈老伝には至元31年(1294年)に亡くなったと記されるが[6]、次の帝師が任命されたのは至元28年(1291年)のことであるため、サキャ派内部での抗争に巻き込まれて地位を失ったのではないかとされる[7]。一方、チベット語史料では47歳で五台山(rtse lna)で亡くなったと記される[1]。イェシェー・リンチェンの没後、帝師の地位はシャル派とはまた別の派閥であるカンサルパのタクパ・オーセルに受け継がれた[8]

脚注

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  1. ^ a b c 佐藤/稲葉1964,123頁
  2. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年]是歳、以亦摂思連真為帝師」
  3. ^ 稲葉1965,121-122頁
  4. ^ 乙坂1989,29-31頁
  5. ^ 中村1997,127頁
  6. ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「帝師八思巴者、土番薩斯迦人、族款氏也。……至元十九年、答児麻八剌剌吉塔嗣、二十三年卒。亦摂思連真嗣、三十一年卒」
  7. ^ 稲葉1965,122-123頁
  8. ^ 稲葉1965,123-124頁

参考文献

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  • 乙坂智子「サキャパの権力構造:チベットに対する元朝の支配力の評価をめぐって」『史峯』第3号、1989年
  • 佐藤長/稲葉正就共訳『フゥラン・テプテル チベット年代記』法蔵館、1964年
  • 中村淳「チベットとモンゴルの邂逅」『中央ユーラシアの統合:9-16世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 11〉、1997年
  • 中村淳「モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書」『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究 <科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書>』、2008年
  • 野上俊静/稲葉正就「元の帝師について」『石浜先生古稀記念東洋学論集』、1958年
  • 稲葉正就「元の帝師について -オラーン史 (Hu lan Deb gter) を史料として-」『印度學佛教學研究』第8巻第1号、日本印度学仏教学会、1960年、26-32頁、doi:10.4259/ibk.8.26ISSN 0019-4344NAID 130004028242 
  • 稲葉正就「元の帝師に関する研究:系統と年次を中心として」『大谷大學研究年報』第17号、大谷学会、1965年6月、79-156頁、NAID 120006374687 
先代
ダルマパーラ・ラクシタ
大元ウルス帝師
1287年 - 1294年
次代
タクパ・オーセル