イサベル・フェルナンダ・デ・ボルボン
イサベル・フェルナンダ・デ・ボルボン Isabel Fernanda de Borbón | |
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出生 |
1821年5月18日 スペイン王国、アランフエス |
死去 |
1897年5月8日(75歳没) フランス共和国、パリ |
配偶者 | イグナツィ・グロフスキ伯爵 |
子女 | 一覧参照 |
父親 | カディス公フランシスコ・デ・パウラ・デ・ボルボーン |
母親 | ルイサ・カルロッタ・デ・ボルボーン=ドス・シシリアス |
イサベル・フェルナンダ・フランシスカ・ホセフィーナ・デ・ボルボン・イ・ボルボン=ドス・シシリアス(Isabel Fernanda Francisca Josefina de Borbón y Borbón-Dos Sicilias, 1821年5月18日 - 1897年5月8日)は、スペインの王族、スペイン王女(Infanta de España)。イサベル2世女王の従姉、義姉。
生涯
[編集]スペイン王フェルナンド7世の末弟であるカディス公フランシスコ・デ・パウラと、その妻で両シチリア王フランチェスコ1世の娘であるルイサ・カルロータの間の第2子、長女として生まれた[1]。パリのオワゾー修道院(Couvent des Oiseaux)の女子寮に預けられていたが、16歳の時にポーランド人亡命貴族で馬術教師のイグナツィ・グロフスキ伯爵(Ignacy Wenzel Gurowski, 1812年 - 1887年)とブリュッセルへ駆け落ちし、スキャンダルを引き起こした。2人は1841年6月26日、ドーヴァーにおいて結婚し、間に8人の子女をもうけた[2]。
1846年にイサベル・フェルナンダの弟フランシスコ・デ・アシースが従妹の女王イサベル2世と結婚すると、ベルギーの貴族社会はイサベル・フェルナンダを無視することはできなくなり、宮廷社交界へ迎えられた。しかし王女が見境なく様々な場に出向いたことで、逆にゴシップの種をまく結果となった。1854年、夫や子供たちとともにスペインへの帰国を許された。次男のフェルナンド(1848年 - 1875年)は初代ボンダー・レアル侯爵(I marqués de Bondad Real)に叙せられたが、未婚で死去したため1代で断絶した。
子女
[編集]夫グロフスキ伯爵との間に5男3女の8人の子女をもうけた(姓はポーランド語名で、名前はスペイン語名で記す)。
- マリア・ルイサ・グロフスカ(1842年 - 1877年) - 1865年、Vicente Bertran Derret de Lisと結婚
- カルロス・グロフスキ(1846年)
- マリア・イサベル・グロフスカ(1847年 - 1925年) - 1870年、Charles Allen-Perkinsと結婚
- フェルナンド・グロフスキ(1848年 - 1875年) - 初代ボンダー・レアル侯爵
- カルロス・グロフスキ(1854年 - 1856年)
- アウグスト・グロフスキ(1855年)
- ルイス・グロフスキ(1856年)
- マリア・クリスティーナ・グロフスカ(1860年 - 1901年) - 1876年、第2代トランコソ子爵バルトロメウ・ヒラルデスと結婚
脚注
[編集]- ^ Darryl Lundy (10 May 2003). “Isabel de Borbón, Infanta de España”. thePeerage.com. 2012年6月10日閲覧。
- ^ Minakowski, Marek Jerzy. “Ignacy Wenzel hr. Gurowski z Gurowa h. Wczele (odm.) (ID: 7.379.97)”. 10 June 2012閲覧。