イザベル・ド・ロレーヌ
イザベル Isabelle | |
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ロレーヌ女公 | |
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在位 | 1431年1月25日 - 1453年2月28日 |
ナポリ王妃 | |
在位 | 1435年2月2日 - 1442年6月2日 |
別号 | バル公妃、アンジュー公妃 |
出生 |
1400年 |
死去 |
1453年2月28日 フランス王国、アンジュー公領、アンジェ |
埋葬 | フランス王国、アンジュー公領、アンジェ大聖堂 |
配偶者 | ナポリ王ルネ・ダンジュー |
子女 |
ジャン2世 ヨランド マルグリット |
家名 | シャトノワ家 |
父親 | ロレーヌ公シャルル2世 |
母親 | マルグリット・ド・バヴィエール |
イザベル・ド・ロレーヌ(Isabelle de Lorraine, 1400年 - 1453年2月28日)は、ロレーヌ女公(在位:1431年 - 1453年)、ナポリ王妃。ロレーヌ公シャルル2世の長女で、母マルグリットはローマ王・プファルツ選帝侯ループレヒトの娘であった。夫のルネ・ダンジュー(ナポリ王、バル公などを兼ねた)を共同君主として治めた。
生涯
[編集]シャルル2世の男子はことごとく夭逝していたため、そこに目を付けたヨランド・ダラゴンが1420年に次男のルネをイザベルと結婚させた。これには夫が1424年にブルゴーニュ派に自領のギーズ伯領を奪われたことも背景にあり(ギーズ伯領は翌1425年にリニー伯ジャン2世へ渡る)、イザベルは父から後継者に指名され、1431年の父の死後にロレーヌ公国を相続し、夫ルネが共同統治者となった[1]。
ところが、従弟のヴォーデモン伯アントワーヌが継承に反対、彼と支援者のブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)に敗れた夫は同年に捕虜となった。イザベルは子供達を連れてフランス王シャルル7世の宮廷に向かい、夫の釈放を掛け合ったが、この時同行していた侍女のアニェス・ソレルはシャルル7世に見初められ、後に王の愛人となった[2]。
夫の不在時には夫の領国の摂政も務めた。善良公と戦っていた夫の救援のため、軍勢を率いたこともある。夫が虜囚のまま1435年に名目上のナポリ王となり、アラゴン王アルフォンソ5世もナポリの継承権を主張すると、夫に代わりナポリへ向かい、劣勢ながらアラゴン軍と戦った。1437年に釈放された夫と翌1438年にナポリで合流したが、戦況を覆せず1442年に王位を諦めてマルセイユへ戻った[3]。
帰国してからも災難は続き、ロレーヌに反発した神聖ローマ帝国の都市メッツの兵に襲われ身の回りの品を奪われた。かねてより都市の反抗に苦しめられた夫はシャルル7世に救援を要請、1444年にフランス軍がロレーヌへ遠征する契機となった[4]。
1453年死去。公位は息子のジャン2世が継承、夫は翌1454年にジャンヌ・ド・ラヴァルと再婚した。
子女
[編集]イザベルが夫ルネとの間にもうけた子は次の通りである。
- ジャン2世(1425年 - 1470年)
- ヨランド(1428年 - 1483年) - ヴォーデモン伯フェリー2世と結婚。ロレーヌ公ルネ2世の母、共同統治者。
- マルグリット(1429年 - 1482年) - イングランド王ヘンリー6世と結婚。
他に7人の子が生まれたが夭逝した。
脚注
[編集]- ^ 三角、P159、佐藤、P141、ミシュレ、P24 - P25。
- ^ 三角、P159 - P160、佐藤、P152、ミシュレ、P190 - P191、P221 - P223。
- ^ 三角、P167、ミシュレ、P256 - P257。
- ^ 佐藤、P156、ミシュレ、P239 - P240。
参考文献
[編集]- 三角美次「アンジュー公ルネ善良王とプロヴァンス」(田辺保編『フランスわが愛 フランス学への一つの試み』青山社、2000年に掲載)
- 佐藤賢一『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』講談社(講談社現代新書)、2014年。
- ジュール・ミシュレ著、桐村泰次訳『フランス史[中世]V』論創社、2017年。
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