イシュワール・バラブ
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イシュワール・バラブ | |
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現地語名 |
Ishwor Ballav ईश्वरबल्लभ |
誕生 |
1937年7月11日 ネパール・カトマンドゥ、ジャイシ・デヴァル |
死没 |
2008年3月22日 (70歳没) ネパール・カトマンドゥ |
職業 | 詩人, 作詞家 |
国籍 | ネパール |
文学活動 | テスロ・アヤム (第三の次元) |
主な受賞歴 | マダン賞(1972年) |
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イシュワール・バラブ(ネパール語:ईश्वरबल्लभ; 英語:Ishwar Ballav; 1937年7月11日 - 2008年3月22日)は、最も影響力のあるネパールの詩人の一人[1] 。ネパール文学史における新しい文学運動、テスロ・アヤム(第三の次元)を代表する詩人。
経歴
[編集]ネパール・サルラヒ郡で教師を務めた後、ターンブル高校でサンスクリット語の教師として赴任。インド・ダージリンに移り住んだ。
1960年代、ダージリンで活動していた同世代の2人の文芸評論家・バイラギ・カイラ(Bairagi Kaila)とインドラ・バハドゥール・ライ(Indra Bahadur Rai)と出会う。その後、1963年にダージリンでネパール文学の発展を再考し評価するためのグループを結成した[2]。カイラらのグループは、自然主義やロマン主義的な傾向の強いネパール文学及びダージリン文学では現代人の意識の表現はできないと批判。ジャック・デリダやジャン・ボードワールらのポストモダニズムに影響を受け、新たな文学の流れをネパール文学にも取り入れようと試みた。1963年、カイラを中心に文芸雑誌『テスロ・アヤム(第三の次元)』を創刊した。バラブとライは、詩や文芸批評などを積極的に寄稿したが、組織的な文芸運動は次第に縮小し、バラブは独自の執筆活動をするようになった[3]。
1972年に『Aagoka Phoolharu Hun Aagoka Phoolharu Hoinan』で、マダン賞を受賞した。
作品リスト
[編集]- Aagoka Phoolharu Hun Aagoka Phoolharu Hoinan
- Samantar
- Kashmai Devaya
- Euta Saharko kinarama[4]
参考文献
[編集]- ^ “Ishwor Ballav: Personalities of Literature from Nepal”. Spinybabbler.org. 2013年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月12日閲覧。
- ^ “How Tesro Aayam shaped Nepali literature”. kathmandupost.com. 2020年11月2日閲覧。
- ^ “How Tesro Aayam shaped Nepali literature”. The Kathmandu Post. 2020年12月15日閲覧。
- ^ “Ishwar Ballav | Nepali Poems”. 2020年11月2日閲覧。