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イジャスラフ・グレボヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イジャスラフ・グレボヴィチロシア語: Изяслав Глебович、? - 1182年あるいは1183年、1184年[1])はユーリー・ドルゴルーキーの孫、グレプの子である[1]

ノヴゴロド第一年代記』の1183年(『イパーチー年代記』では1182年)[2]、叔父のスーズダリ公フセヴォロド(フセヴォロド・グネスド)がヴォルガ・ブルガールへの遠征を行った。イジャスラフもこれに参加するが、大いなる城市と記されたブルガール人の都市・ビリャルを攻めた際に矢を受け、重傷を負った[3]。遠征の最中、矢傷が元でツェフカ川(現アクタイ川(ru)と推測される[4])で死亡した。遺骸は舟でウラジーミルへ運ばれ、同地の生神女就寝大聖堂に埋葬された[5]

出典

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  1. ^ a b Изяслав Глебович, сын Глеба Георгиевича // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона(ブロックハウス・エフロン百科事典
  2. ^ 中澤ほか 2018, p. 182.
  3. ^ 中澤ほか 2018, p. 184.
  4. ^ 中澤ほか 2018, p. 183.
  5. ^ 中澤ほか 2018, p. 186.

参考文献

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  • 中澤敦夫, 吉田俊則, 藤田英実香「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(8) : 『キエフ年代記集成』(1181〜1195年)」『富山大学人文学部紀要』第68巻、富山大学人文学部、2018年2月、181-279頁、CRID 1390572174764448768doi:10.15099/00018264hdl:10110/00018264ISSN 03865975