コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

イスハク・ベイ・クラロール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イスハク・ベイ・クラロール

埋葬 セレスオスマン帝国
王室 コトロマニッチ家
父親 スティエパン・トマシュ
母親 カタリナ・コサチャ=コトロマニッチ
信仰 カトリック教会
イスラム教に改宗
テンプレートを表示

イスハク・ベイ・クラロール (トルコ語: Ishak Bey Kraloğlu ボスニア語: Ishak-beg Kraljević/Исхак-бег Краљевић; 1449年 - 1493年以降)、洗礼名シギスムンド・トマシェヴィチ (Сигисмунд Томашевић) は、ボスニア王スティエパン・トマシュの王子。同母妹カタリナと並び、知られている限り最後のコトロマニッチ家の人物である。1463年にボスニア王国オスマン帝国征服された際に捕らえられたが、イスラム教に改宗したのちメフメト2世の従者となり、最終的にサンジャク=ベイの地位まで昇進した。

幼少期

[編集]
スティエパン・トマシュ

シギスムンドはコトロマニッチ家のボスニア王スティエパン・トマシュと2番目の王妃カタリナ・コサチャ=コトロマニッチの息子として生まれた。1449年にスティエパン・トマシュが王子の誕生をラグサ共和国に伝えているが、これはおそらくシギスムンドのことを指している。ラグサ共和国は慣例に従い、両親と幼児に贈り物を送った[1]。1453年には妹カタリナが生まれた。またスティエパン・トマシュと前妻(婚姻の無効が成立)の間に異母兄スティエパンがいた[2]

母方の一族はシギスムンドを次代のボスニア王に据えようとしたが、1461年7月にスティエパン・トマシュが死去したのちは異母兄スティエパン・トマシェヴィチが後を継ぎ即位した[2]。シギスムンドの母方の祖父であり王国内で最強の大貴族であったスティエパン・ヴクチッチ・コサチャは、差し迫ったオスマン帝国の脅威に立ち向かうには成人した王が不可欠であると理解し、シギスムンド擁立を取り下げた[3]。通説として、スティエパン・トマシェヴィチの在位中シギスムンドは妹や母と共にフォイニツァのコゾグラド城で育てられたといわれるが、実際には王がこの異母弟をヤイツェの王宮で傍近くに置いていた可能性が高い。というのも、子がいないスティエパン・トマシェヴィチにとってシギスムンドは推定相続人であったからである[4]

王国の滅亡と虜囚生活

[編集]

1463年5月、オスマン帝国がボスニアに侵攻した。抵抗をあきらめたボスニア王族は、てんでばらばらに分かれてクロアチアアドリア海沿岸へ逃げることで、オスマン軍の追及を振り払おうとした。シギスムンドと妹カタリナは母と別れて逃げたが、ヤイツェに近いズヴェチャイの街でオスマン軍に捕まった。国王スティエパン・トマシェヴィチはクリュチでオスマン軍に投降し、間もなく斬首された。一方で母后カタリナは、アドリア海沿岸へ逃げおおせた[4]。彼女は夫が持っていた銀の剣をラグサに置き、息子シギスムンドがトルコ人の手から解放された際に渡すように命じた。その後カタリナはローマに住みながら、シギスムンドとカタリナの兄妹の身代金を工面する日々を送った。また1474年には、母カタリナはオスマン帝国の国境地帯に赴き、異母弟でイスラム教に改宗しオスマン帝国の政治家になっていたヘルセクザデ・アフメド・パシャ(スティエパン・ヘルツェゴヴィチ)と接触しようとしたが、失敗した[5]

メフメト2世

1473年、シギスムンドはオスマン帝国のスルターンメフメト2世の従者の一人としてオトゥルクベリの戦いに参戦し、白羊朝のウズン・ハサンに勝利した[6]。彼は際立ってメフメト2世の傍近くに仕えるようになっていた。2人は食事を共にし、バックギャモンに興じることもあった。シギスムンドはゲーム中にたびたび狼狽えるのを隠さなかったり、「無作法な冗談」でメフメト2世を楽しませたりしたという[6][7]

1475年ごろ、母カタリナが身代金を支払おうと最後の試みを行い失敗に終わったのを機に、シギスムンドはカトリックからイスラム教に改宗し、イスハク・ベイ・クラロール (クラロール、トルコ語: Kraloğluは「王の子」の意)と呼ばれるようになった。彼は少なくとも1476年春、従弟のマティヤ・サバンチッチがオスマン帝国支配化の傀儡ボスニア王に建てられたころにはイスラム教に改宗していた。彼自身もこの傀儡ボスニア王の候補として考えられていた[6]。母カタリナは1478年10月に死去するが、その直前に、シギスムンドがキリスト教信仰を取り戻した場合という条件付きで彼をボスニア王の後継者に指名する遺言を残した[8]

オスマン帝国軍人として

[編集]

イスハク・ベイは叔父アフメド・パシャに従い、メフメト2世とその子バヤズィト2世の治世下で軍人として急速な昇進を重ねていった[6]。彼はアナトリア半島のカレスィサンジャク=ベイのポストを得た。1485年から1491年のオスマン・マムルーク戦争では、当初ハドゥム・ヤクプ・パシャの指揮下で、次いで叔父の指揮下に入って、アダナ付近で戦った。1486年、アフメド・パシャとイスハク・ベイは、他のサンジャク=ベイと共にマムルーク軍に敗れ、捕虜となった。しかしイスハクは1488年8月17日までにエジプトから脱走し、オスマン軍に復帰した。次のマムルーク軍との戦いでは右翼に参陣したが早い段階で撤退して味方の敗北を招き、裁判にかけられたものの放免された[9]

イスハク・ベイに関する記録は、1493年9月9日のクルバヴァの戦い(オスマン帝国軍の勝利)を最後に途絶える[10]。イスハク・ベイは、知られている限り最後のコトロマニッチ家の人物であった[11]

家系図

[編集]
イスハク・ベイ・クラロールの系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. ヴラディスラヴ・コトロマニッチ
 
 
 
 
 
 
 
8. スティエパン・トヴルトコ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. イェレナ・シュビッチ
 
 
 
 
 
 
 
4. スティエパン・オストヤ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9. プレムキニャ・ヴコスラヴァ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. スティエパン・トマシュ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 不明
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. イスハク・ベイ・クラロール
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. フラナ・ヴコヴィッチ・コサチャ
 
 
 
 
 
 
 
12. ヴカツ・フラニッチ・コサチャ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. アンカ
 
 
 
 
 
 
 
6. スティエパン・ヴクチッチ・コサチャ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
13. カタリナ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. カタリナ・コサチャ=コトロマニッチ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. ジュラジ2世バルシッチ
 
 
 
 
 
 
 
14. バルシャ3世バルシッチ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. イェレナ・ラザレヴィチ
 
 
 
 
 
 
 
7. イェレナ・バルシッチ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. ニキタ・トピヤ
 
 
 
 
 
 
 
15. マラ・トピヤ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注

[編集]
  1. ^ Regan 2010, p. 17.
  2. ^ a b Regan 2010, p. 18.
  3. ^ Draganović 1942, p. 555.
  4. ^ a b Regan 2010, p. 19.
  5. ^ Regan 2010, p. 33.
  6. ^ a b c d Regan 2010, p. 36.
  7. ^ Babinger 1992, p. 222.
  8. ^ Regan 2010, p. 34.
  9. ^ Regan 2010, p. 37.
  10. ^ Regan 2010, p. 38.
  11. ^ Regan 2010, p. 70.

参考文献

[編集]
  • Babinger, Franz (1992). Mehmed the Conqueror and His Time. Princeton University Press. ISBN 0-691-01078-1 
  • Draganović, Krunoslav (1942) (Serbo-Croatian), Povijest hrvatskih zemalja Bosne i Hercegovine od najstarijih vremena do godine 1463, HKD Napredak 
  • Pandžić, Bazilije (1979), “Katarina Vukčić Kosača (1424-1478)” (Serbo-Croatian), Povijesnoteološki simpozij u povodu 500 obljetnice smrti bosanske kraljice Katarine (Franjevačka teologija u Sarajevu) 
  • Regan, Krešimir (2000) (Serbo-Croatian), Bosanska kraljica Katarina, Breza