イダ・ヘンデル
イダ・ヘンデル | |
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2016年 | |
基本情報 | |
出生名 | Ida Haendel CB |
生誕 | 1928年12月15日 |
出身地 | ポーランド・ヘウム |
死没 | 2020年6月30日(91歳没) |
学歴 | ワルシャワ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ヴァイオリニスト |
担当楽器 | ヴァイオリン |
イダ・ヘンデル(Ida Haendel CBE、1928年12月15日 - 2020年6月30日[1][2] )は、ポーランド・ヘウム出身のイギリスのクラシック音楽のヴァイオリニスト。
生涯
[編集]幼児期より天才と称せられ、5歳にしてすでにチャイコフスキーやメンデルスゾーンなどをものにしたといわれる。公式デビューは1935年[3]である。ワルシャワ音楽院に学んだ後、ベルリンでカール・フレッシュに、またパリでジョルジュ・エネスコにも師事した。第二次世界大戦中は、他の多くのユダヤ系ヴァイオリニストと同じく、英軍・米軍のために慰問演奏を行なった。鋭いテクニックと、ニュアンスに富んだ音色が特徴的だが、気品よりは感情表出の激しさによって、女性ヴァイオリニストの中でも一頭地を抜いた伝説の存在であった。
影響を受けた芸術家として、同郷の先輩ヴァイオリニストのブロニスワフ・フーベルマンや、指揮者ラファエル・クーベリックへの傾倒を語っている。1980年代の実質的な活動停止や、録音嫌い(長いキャリアにもかかわらず、録音数は非常に少ない)、長年にわたって実年齢を伏せてきたことから、「マルツィやヌヴーと同世代の伝説の女性ヴァイオリニスト」といわれ続けてきた。当時は天才少女を売り出すため生年の偽装が大っぴらに行われており、1928年生まれでではない説が有力である[4]。ウラジミール・アシュケナージとの共演によるCD制作によって見事な復活を果たし、1998年には指揮者サイモン・ラトルと、2004年にはピアニストフー・ツォンとともに来日も果たした。没年には、カナダ在住であった。
人物
[編集]ヘンデルはヨーロッパ大陸の出身者にもかかわらず、イギリス音楽にも深い関心と理解を示し、エルガーやブリテンの協奏曲を積極的に演奏・録音したほか、ウォルトンのヴァイオリン協奏曲の録音は、この作品の模範的演奏の一つに数えられている。英国楽壇への功労が認められ、1991年にはCBEを受勲した。
演奏に専念するため入門志願者を断わることでも有名だったが、例外的に米独の混血ヴァイオリニスト、デイヴィッド・ギャレットを世に送った。しかしヘンデル自身は、「私は彼の(最初の)ファンであって、師匠ではない」と主張している。90歳を過ぎても来日公演を続けた[5]。
楽器はストラディバリウス(1696年製)を使用。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ Oerding, Henrik (1 July 2020). “Zum Tod von Ida Haendel: Warmherzig und würdevoll” (ドイツ語). BR-KLASSIK. 1 July 2020閲覧。
- ^ White, Robert (1 July 2020). “Ida Haendel obituary”. The Guardian (London) 1 July 2020閲覧。
- ^ “1st International Henryk Wieniawski Violin Competition”. www.wieniawski.com. International Henryk Wieniawski Violin Competition. 2020年7月5日閲覧。
- ^ The Strad magazine 1937年3月号に 15 January 1923と本当の生年月日が記されている。Henryk Wieniawski Violin Competitionで第7位を得た時、彼女は12歳であった。
- ^ “90歳過ぎても現役。伝説のヴァイオリニスト イダ・ヘンデルが来日。”. doria-international.com. doria-international.com. 2020年8月22日閲覧。