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イフティヤールッディーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イフティヤールッディーンペルシア語: اختیار الدین‎、1268年 - 1314年)は、大元ウルスに仕えたムスリム官僚の一人。『元史』では奕赫抵雅爾丁(yìhèdǐyǎĕrdīng)と漢字表記される。

概要

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イフティヤールッディーンの父のイスマイル(亦速馬因)は大都南北両城兵馬都指揮使に任ぜられた。

イフティヤールッディーンは幼くして学問を嗜み、一度読んだ書物の内容は生涯忘れなかったという。大元ウルスに仕えたイフティヤールッディーンは中書右司員外郎、左司郎中、江東建康道粛政廉訪使などを歴任した[1]

江東建康道に赴任した際には、前任者が残した獄門道具が並べられているのを見て、これらを撤去させたという逸話が残されている[2]

至大2年(1309年)、尚書省が設置されるとイフティヤールッディーンは参議尚書省事とされ京師に招聘されたが、イフティヤールッディーンは固持した。その後、中書省が再設置されて改めて参議中書省事とされた時も病を理由に固持し、間もなく延祐元年(1314年)に47歳で亡くなった[3]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻137列伝24奕赫抵雅爾丁伝,「奕赫抵雅爾丁字太初、回回氏。父亦速馬因、仕至大都南北両城兵馬都指揮使。奕赫抵雅爾丁幼穎悟嗜学、所読書一過目即終身不忘。尤工其国字語。初為中書掾、以年労授江西行省員外郎、入為吏部主事、不再閲月、固辞。擢刑部員外郎、四方所上獄、反復披閲成牘、多所平反。遷陝西漢中道粛政廉訪司僉事、不赴。改中書右司員外郎、尋陞郎中」
  2. ^ 『元史』巻137列伝24奕赫抵雅爾丁伝,「一日、与同列共議獄、有異其説者、奕赫抵雅爾丁曰『公等読律、苟不能変通以適事宜、譬之医者、雖熟於方論、而不能切脈用薬、則於疾痛奚益哉』。同列雖不平、識者服其為名言。大徳八年肆赦、廷議惟官吏因事受賕者不預。奕赫抵雅爾丁曰『不可。恩如雨露、万物均被、贓吏固可嫉、比之盗賊則有間矣。宥盗而不宥吏、何耶』。刑部嘗有獄事、上讞既論決、已而丞相知其失、以譴右司主者。奕赫抵雅爾丁初未嘗署其案、因取成案閲之、窃署其名於下。或訝之曰『茲獄之失、公実不与、丞相方譴怒而公反追署其案、何也』。奕赫抵雅爾丁曰『吾偶不署此案耳、豈有与諸君同事而独幸免哉』。丞相聞而賢之、同列因以獲免。遷左司郎中。時左司闕一都事、平章梁暗都剌謂奕赫抵雅爾丁曰『人之材幹固嘗有之、惟篤実不欺為難得、公当以所知挙』。奕赫抵雅爾丁遂以王毅・李迪為言、一時輿論莫不称允。又嘗論朝士、如王仁卿・賈元播・高彦敬・敬威卿・李清臣輩可大用、時諸公処下僚、後皆如其言。遷翰林侍講学士・知制誥兼修国史、転中奉大夫・集賢大学士。未幾、除江東建康道粛政廉訪使。始視事、見以獄具陳列庭下甚備、問之、乃前官創制以待有罪者。奕赫抵雅爾丁蹙然曰『凡逮至臬司、皆命官及有出身之吏、廉得其情、則将服罪、獄具毋庸施也』。即屏去之。監憲一年、贓吏削跡」
  3. ^ 『元史』巻137列伝24奕赫抵雅爾丁伝,「至大初元、立尚書省、拝参議尚書省事、召至京師、懇辞不就。改立中書省、復拝参議中書省事、亦以疾辞。延祐元年卒、年四十有七」

参考文献

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