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イロナ・フォン・ウンガルン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イロナ・フォン・ウンガルン
Ilona von Ungarn

出生 1158年ごろ
死去 1199年5月25日
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリア公国ハイリゲンクロイツ修道院
配偶者 オーストリア公レオポルト5世
子女 フリードリヒ1世
レオポルト6世
アグネス
家名 アールパード家
父親 ハンガリー王ゲーザ2世
母親 エフロシニヤ・ムスチスラヴナ
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イロナ・フォン・ウンガルン(ドイツ語:Ilona von Ungarn, 1158年ごろ - 1199年5月25日[1])またはヘレナ(Helena)は、ハンガリー王女でオーストリア公レオポルト5世の妃。

生涯

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イロナはハンガリー王ゲーザ2世エフロシニヤ・ムスチスラヴナキエフ大公ムスチスラフ1世の娘)の間の娘である。1174年[2]、イロナは義理の兄弟にあたるバーベンベルク家レオポルト5世と結婚した。イロナの兄イシュトヴァーン3世はレオポルト5世の姉アグネスと結婚していた[3]

レオポルト5世は1186年に遠戚のシュタイアーマルク辺境伯オットカール4世との間で、シュタイアーマルク辺境伯領の相続をバーベンベルク家に確保するための協定を結んだ(ゲオルゲンベルク協定)[4]。また、レオポルトは聖十字架を手に入れたことで歴史に名を残し、その聖十字架はハイリゲンクロイツ修道院に寄贈された[5]。レオポルトは第3回十字軍に参加し、聖地イングランド王リチャード1世と対立し、リチャード1世を捕縛したことでも知られる[6]。レオポルトはリチャード1世に対し莫大な身代金をかけ、その身代金で貨幣の刷新、シュタイアーマルクに新しい銀貨鋳造所の開設、および町の要塞化や建設を行った[7]

レオポルト5世は1194年12月31日に落馬事故のけががもとでグラーツで死去し、イロナはその5年後に死去した。レオポルト5世の死後、オーストリアは長男フリードリヒ1世が、シュタイアーマルクは次男レオポルト6世が継承した[8]

子女

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レオポルト5世との間に以下の子女をもうけた。

  • フリードリヒ1世(1175年 - 1198年) - オーストリア公(1194年 - 1198年)
  • レオポルト6世(1176年 - 1230年) - シュタイアーマルク公(1194年 - 1230年)、オーストリア公(1198年 - 1230年)
  • アグネス

脚注

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  1. ^ Cawley, Charles (April 2014), Hungary Kings, Medieval Lands database (英語), Foundation for Medieval Genealogy
  2. ^ LOUDA & MACLAGAN, p. 175
  3. ^ LECHNER, p. 184.
  4. ^ VEBER, p. 96
  5. ^ LECHNER, pp. 181-182
  6. ^ VEBER, pp. 98-99
  7. ^ VEBER, p. 132
  8. ^ WUTZEL, p. 26

参考文献

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  • LOUDA, Jiří. & MACLAGAN, Michael. Lines of Succession, Little,Brown & Company, 1981.
  • LECHNER, Karl. Die Babenberger : Markgrafen und Herzoge von Österreich 976-1246. 5. vyd. Wien ; Köln ; Weimar: Böhlau, 1994. 478 p. ISBN 3-205-98229-0.
  • VEBER, Václav, et al. Dějiny Rakouska. 1. doplněné a aktualizované. vyd. Praha: Nakladatelství Lidové noviny, 2009. ISBN 978-80-7106-239-4.
  • WUTZEL, Otto. Herzog Leopold VI. In: POLLAK, Walter. Tausend Jahre Österreich : eine biographische Chronik. Bd. 1, Von Babenbergern bis zum Wiener Kongress. Wien: Jugend und Volk, 1975. ISBN 3-7141-6521-5.