イロナ・フォン・ウンガルン
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イロナ・フォン・ウンガルン Ilona von Ungarn | |
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出生 |
1158年ごろ |
死去 |
1199年5月25日 |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 オーストリア公国、ハイリゲンクロイツ修道院 |
配偶者 | オーストリア公レオポルト5世 |
子女 |
フリードリヒ1世 レオポルト6世 アグネス |
家名 | アールパード家 |
父親 | ハンガリー王ゲーザ2世 |
母親 | エフロシニヤ・ムスチスラヴナ |
イロナ・フォン・ウンガルン(ドイツ語:Ilona von Ungarn, 1158年ごろ - 1199年5月25日[1])またはヘレナ(Helena)は、ハンガリー王女でオーストリア公レオポルト5世の妃。
生涯
[編集]イロナはハンガリー王ゲーザ2世とエフロシニヤ・ムスチスラヴナ(キエフ大公ムスチスラフ1世の娘)の間の娘である。1174年[2]、イロナは義理の兄弟にあたるバーベンベルク家のレオポルト5世と結婚した。イロナの兄イシュトヴァーン3世はレオポルト5世の姉アグネスと結婚していた[3]。
レオポルト5世は1186年に遠戚のシュタイアーマルク辺境伯オットカール4世との間で、シュタイアーマルク辺境伯領の相続をバーベンベルク家に確保するための協定を結んだ(ゲオルゲンベルク協定)[4]。また、レオポルトは聖十字架を手に入れたことで歴史に名を残し、その聖十字架はハイリゲンクロイツ修道院に寄贈された[5]。レオポルトは第3回十字軍に参加し、聖地でイングランド王リチャード1世と対立し、リチャード1世を捕縛したことでも知られる[6]。レオポルトはリチャード1世に対し莫大な身代金をかけ、その身代金で貨幣の刷新、シュタイアーマルクに新しい銀貨鋳造所の開設、および町の要塞化や建設を行った[7]。
レオポルト5世は1194年12月31日に落馬事故のけががもとでグラーツで死去し、イロナはその5年後に死去した。レオポルト5世の死後、オーストリアは長男フリードリヒ1世が、シュタイアーマルクは次男レオポルト6世が継承した[8]。
子女
[編集]レオポルト5世との間に以下の子女をもうけた。
- フリードリヒ1世(1175年 - 1198年) - オーストリア公(1194年 - 1198年)
- レオポルト6世(1176年 - 1230年) - シュタイアーマルク公(1194年 - 1230年)、オーストリア公(1198年 - 1230年)
- アグネス
脚注
[編集]参考文献
[編集]- LOUDA, Jiří. & MACLAGAN, Michael. Lines of Succession, Little,Brown & Company, 1981.
- LECHNER, Karl. Die Babenberger : Markgrafen und Herzoge von Österreich 976-1246. 5. vyd. Wien ; Köln ; Weimar: Böhlau, 1994. 478 p. ISBN 3-205-98229-0.
- VEBER, Václav, et al. Dějiny Rakouska. 1. doplněné a aktualizované. vyd. Praha: Nakladatelství Lidové noviny, 2009. ISBN 978-80-7106-239-4.
- WUTZEL, Otto. Herzog Leopold VI. In: POLLAK, Walter. Tausend Jahre Österreich : eine biographische Chronik. Bd. 1, Von Babenbergern bis zum Wiener Kongress. Wien: Jugend und Volk, 1975. ISBN 3-7141-6521-5.