コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

イヴァン・ボフーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イワン・ボフーンから転送)
イヴァン・ボフーン
紋章
息子 フルィホーリイ・ボフーン
称号 連隊長
身分 貴族
家名 ボフーン家
民族 ウクライナ人
父親 テオドル・ボフーン
生没 1608年/1618年 - 1664年2月23日
出生 ポーランド・リトアニア共和国
死亡 コサック国家ノヴホロド・シヴェルシクィイ
宗教 正教徒
テンプレートを表示

イヴァン・ボフーンウクライナ語Іва́н Богу́н, 1608年/1618年 - 1664年2月23日)は、ポーランド・リトアニア共和国軍人ウクライナ・コサックの司令官、フメリニツキーの乱の指揮者の1人である。モヒリーウ連隊連隊長1649年)、カリヌィーク連隊の連隊長(1650年1651年1653年 - 1657年)、ならびにパーヴォロチ連隊の連隊長(1658年1664年)を歴任した。

生涯

[編集]

イヴァン・ボフーンは、ウクライナの小貴族であるテオドール・ボフーンの家に生まれた。父は登録コサックに属し、キエフ県で小さな知行地を有していた。イヴァン・ボフーンも登録コサックとなり、ポーランド・リトアニア共和国の南部国境でタタールとの数多くの小競り合いに参加した。その後、反政府のパウリュークの乱1637年)とオストリャヌィーンの乱1638年)に加わり、ドン・コサックと共にアゾブの防衛戦ロシア語版1641年 - 1642年)に参与した。

1648年にフメリニツキーの乱が勃発すると、イヴァン・ボフーンはボフダン・フメリニツキー率いるコサック軍に味方し、チヒルィーン連隊百人隊長としてプロのコサックの遊撃隊を指揮するようになった。乱ではボフーンの軍事的才能が発揮され、彼はフメリニツキーの親友という立場の相談役となり、1649年末にモヒリーウ連隊の連隊長、1650年カリヌィーク連隊の連隊長に任命された。

1651年にボフーンはポジーリャ地方で活躍し、マルチン・カリノフスキスタニスワフ・ランツコロンスキが率いるポーランドの官軍と戦った。同年3月にボフーンはヴィーンヌィツャを守り、敵の竜騎兵を罠に掛けて殲滅し、ポーランドの包囲軍を撤退させた。5月始めにボフーンのコサック隊はポジーリャ県の中心都市カームヤネツィカームヤネツィ城を陥落させた。

1651年6月末に、コサック軍がベレステーチュコの戦いロシア語版で惨敗を喫して包囲された折、ボフーンは臨時の棟梁に選ばれてコサックの陣地を守り抜き、コサックの騎兵砲兵とコサック軍の中枢をなすプロの歩兵を連れて包囲脱出に成功した。

ステファン・チャルニェツキ(左)対イヴァン・ボフーン(右)
モナスティルィーシュチェの戦いウクライナ語版

1653年3月にイヴァン・ボフーンの遊撃隊は、ポジーリャ地方のモナスティルィーシュチェ町でポーランドの国民的英雄とされるステファン・チャルニェツキの軍勢と激戦を行った(モナスティルィーシュチェの戦いウクライナ語版)。数で劣るコサック隊はモナスティルィーシチェを守り抜き、チャルネツキに傷を負わせて多勢の敵軍を追い返した。その後ボフーンは、フメリニツキーの息子ティモフィーイ・フメリニツキーを伴ってモルドバ公国への出兵に参加したが、1653年11月にティモフィーイが戦死すると、ウクライナへ帰陣した。

1654年コサック国家モスクワ大公国ペレヤースラウ条約を締結すると、ボフーンは条約に反対しコサックの独立を主張、カリヌィーク連隊のコサックと共にツァーリに忠節を誓約しなかった。

1655年1月、オフマーティウの戦いロシア語版の折にボフーンは数千人のコサックを以って8万の敵軍からウーマニを守り、ポーランド勢へ騎兵による奇襲をかけてコサック・モスクワ同盟軍を完敗から救い、合戦を引き分けに終わらせた。

1656年12月、ポーランドと戦ったスウェーデントランシルヴァニアを助けるため、ボフーンの連隊は任命ヘーチマンアンチーン・ジュダノーヴィチが率いるコサック軍と共に西ウクライナに派遣され、スウェーデン軍と連携をとりながら、1657年前半中にクラクフブレストワルシャワの占領に参加した。1657年の夏にフメリニツキーが死去したことにより、コサック軍は中部ウクライナに帰り、ボフーンはポジーリャに帰陣した。

荒廃時代大洪水時代)になると、ボフーンはフメリニツキーの後継者であるイヴァン・ヴィホーウシクィイとフメリニツキーの息子ユーリイ・フメリニツキーを支持したが、ヴィホーウシクィイがポーランドと結んだハージャチ条約1658年)と、ユーリイがモスクワと交わしたスロボディーシュチェ条約1660年)に対して強く反発し、コサック国家の独立の必要性を主張しつづけた。しかし、コサックの長老たちが親モスクワ派と親ポーランド派に分裂すると、ボフーンは後者に加担せざるを得なくなり、パーヴォロチ連隊の連隊長としてモスクワの軍勢と戦った。

1662年にポーランド政府はウクライナでのボフーンの影響力をなくすために彼をマルボルクに移し、マルボルク城で軟禁した。しかし、1663年にボフーンが親モスクワ派のイヴァン・ブリュホヴェーツィクィイと内通してるとの偽りの告訴によってボフーンは牢屋に入れられ、1664年2月23日にノーウホロド=シーヴェルシクィイの周辺で処刑された。

ウクライナの歴史学文学民謡などでイヴァン・ボフーンは英雄視され、ウクライナの首都キエフにある中央軍事学校が彼の名を記念している。

係累

[編集]

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]