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インゲボルガ・ムスチスラヴナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
インゲボルガ・ムスチスラヴナ
Ингеборга Мстиславна

出生 1100年
死去 1137年以降
配偶者 シュレースヴィヒ公クヌーズ・レーヴァート
子女 キアステン
マルグレーテ
カトリーネ
ヴァルデマー1世
家名 リューリク家
父親 キエフ大公ムスチスラフ1世
母親 クリスティーナ・インゲスドッテル
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インゲボルガ・ムスチスラヴナ(キエフのインゲボルガ、ノヴゴロドのインゲボー)ロシア語: Ингеборга Мстиславнаロシア語: Ингеборга Киевскаяデンマーク語: Ingeborg af Novgorod)、1100年頃 - 1137年以降)は、12世紀前半のルーシの公女である。キエフ大公ムスチスラフ1世とその一人目の妻・クリスティーナスウェーデン王インゲ1世の娘)の子。デンマーク王ヴァルデマー1世(Valdemar)等の母。

生涯

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インゲボルガはおそらく父の宮廷で教育を受け、成長した。1116年ごろに南ユトランド(シュレースヴィヒ公国地域)のヤール(中世スカンジナビアの貴族、州の太守[1])であるクヌーズ・レーヴァート(Knud Lavard、エストリズセン朝デンマーク王エーリク1世の子)と結婚した。文学的史料には、インゲボルガの父・ムスチスラフの宮廷におけるクヌーズの求婚の使者を賞賛する描写がある。結婚はインゲボルガの母方のおばにあたる、デンマーク王妃マルグレーテ(デンマーク王ニルス妃)によって取り持たれた。

結婚後、インゲボルガは夫とともに、デンマーク王位をめぐる闘争の渦中に置かれた。闘争の過程で、夫のクヌーズ・レーヴァートは1131年に殺害された。夫の死の数日後に、後にデンマーク王ヴァルデマー1世となる息子を産んだ。ヴァルデマーの名は、インゲボルガの曽祖父にあたるルーシの大公・ウラジーミル・モノマフにちなんで名づけられた。

1137年、インゲボルガは子供たちと共に、故郷への帰還を余儀なくされた。以降の消息については不明である。

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夫はエストリズセン朝のクヌーズ・レーヴァート。子には以下の人物がいる。

脚注

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注釈

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  • 本頁のデンマーク王室出身者のカタカナ表記は、大阪大学外国語学部HP内の辞書に従うが、一部慣用表記を優先させた。また、付記したラテン文字はデンマーク語表記。

出典

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  1. ^ 井桁貞義『コンサイス露和辞典』p1313

参考文献

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