インドラヴァルマン2世
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インドラヴァルマン2世 ឥន្ទ្រវរ្ម័នទី២ | |
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クメール王朝君主 | |
在位 | 1220年頃 - 1243年 |
出生 |
不詳 |
死去 |
1243年 |
王朝 | アンコール朝 |
父親 | ジャヤーヴァルマン7世 |
母親 | インドラデーヴィー |
宗教 | 大乗仏教[1][2] |
インドラヴァルマン2世(クメール語: ឥន្ទ្រវរ្ម័នទី២, ラテン文字転写: Indravarman II, 生年不詳 - 1243年[3][4][5])は、クメール王朝の第22代[6][7]君主(在位:1220年頃[7][8] - 1243年[6][9])。
生涯
[編集]第21代君主[6]・ジャヤーヴァルマン7世[7]とその妃インドラデーヴィーの子。王子時代はラヴォ(現在のロッブリー県)の総督であった[3]ともされる。1220年頃、父王が死去したために即位した。ジャヤーヴァルマン7世の政策を引き継いで、先王が建立したいくつかの仏教寺院を拡張・完成させた。ジャヤーヴァルマン7世の代に浪費されて悪化した財政が祟って[10]、1220年[11]には1190年以来支配下に置いていた[8]チャンパ[12]のアンシャラージャ(ジャヤ・パラメーシュヴァラヴァルマン2世)[4]に、更には1238年[13]にはスコータイ王朝のバーンクラーンハーオ(シーインタラーティット)にそれぞれ独立を許した[14][15]ため、クメールの領土は縮小し[4]、勢力が大きく衰退した[7][8][12]と言われていた[10]。
一方で、2000年代に行われた発掘調査[16]の結果などから、インドラヴァルマン2世の治下においてもクメールはそれなりに繁栄していた[17]とも、インドラヴァルマン2世自身も実力と行動力を持っていたとも考えられている[15]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 石澤 2005, p. 275
- ^ 迫田 2015, p. 49, 「アンコール遺跡&シェムリアップ」
- ^ a b Cœdès 1968, p. 180
- ^ a b c Cœdès 1968, p. 181
- ^ 石澤 2005, p. 192
- ^ a b c 石澤 2002, p. 25
- ^ a b c d 迫田 2015, p. 84, 「カンボジア文化講座」
- ^ a b c “歴史”. DTACカンボジア観光情報局. 2013年4月21日閲覧。
- ^ 迫田 2015, p. 48, 「アンコール遺跡&シェムリアップ」
- ^ a b 石澤 2002, p. 12
- ^ Cœdès 1968, p. 171
- ^ a b コイ 2000, p. 62
- ^ “スコータイ — 日本アセアンセンター”. 2017年9月29日閲覧。
- ^ 石澤 2005, p. 193
- ^ a b 石澤 2002, p. 13
- ^ 石澤 2002, p. 4
- ^ 石澤 2002, pp. 12–14
参考文献
[編集]- George Cœdès (May 1, 1968). Walter F. Vella. ed. The Indianized States of South-East Asia. Susan Brown Cowing. trans. University of Hawaii Press. ISBN 978-0824803681
- レイ・タン・コイ 著、石澤良昭 訳『東南アジア史』(増補新版)白水社〈文庫クセジュ〉、2000年4月30日。ISBN 978-4560058268。
- 石澤良昭『アンコール・王たちの物語 碑文・発掘成果から読み解く』NHK出版〈NHKブックス〉、2005年7月30日。ISBN 978-4140910344。
- 石澤良昭「アンコール王朝史の新局面」『東南アジア -歴史と文化-』第2002巻第31号、2002年、3-26頁。
- 迫田龍 著「アンコール遺跡&シェムリアップ」、上野光人 編『ララチッタ アンコールワット・ホーチミン』JTBパブリッシング、2015年4月1日。ISBN 978-4533104220。
- 迫田龍 著「カンボジア文化講座」、大橋圭子 編『るるぶアンコールワット』JTBパブリッシング、2015年9月30日。ISBN 978-4533106668。