ウィリアム・ピケンズ
表示
ウィリアム・ピケンズ(William Pickens、1881年1月15日 - 1954年4月6日)はアフリカ系アメリカ人の雄弁家、教育者、ジャーナリスト、エッセイスト、NAACPのメンバーだった。
彼は2つの自伝を書いた。最初に書いたのは『奴隷の相続人』(1911年)、第二は『爆発する柵(しがらみ)』(1923年)で、1919年の暴動における、アフリカ系アメリカ人に対する人種差別的攻撃と、1921年のリンチ事件をあつかった。
伝記
[編集]解放奴隷の息子として1881年1月15日にサウスカロライナ州で生まれ、アーカンソーで育った。
複数の学校で学んだ。タラデガ・カレッジ(1902年)とエール大学(1904年)から学位を、フィスク大学(1908)から修士号、セルマ大学(1915年)から博士号を獲得。
ミニー・クーパー・マカルピンと結婚し、3人の子供がいた。
ピケンズはメソジストだった。
彼は、妻といっしょに豪華客船RMS「モレタニア」号(1938年建造)に乗って漫遊旅行をしている最中に死に、海に水葬された。[1][2]
マイルス・デイビスの自伝によると、ピケンズはデイビスの大叔父に当たり、ピケンズがマーカス・ガーベイを批判していたために、(ガーベイを支持する)デイビスの父親はピケンズを嫌っていた。
経歴
[編集]ラテン語、ギリシャ語、ドイツ語に堪能で、母校タラデガ・カレッジやワイリー・カレッジで教鞭をとった。
また、「有色人種の進歩のための協会」(NAACP)の雄弁会員で、米国財務省の防衛貯蓄部門の長官を務めた。
著作物
[編集]- エイブラハム·リンカーン、人間と政治家、1909
- 奴隷の相続人、1910年から1911年(最初の自伝)
- フレデリック·ダグラスと自由の精神、1912
- 奴隷解放の50年、1913
- 分離政策・究極の効果、1915
- 新ネグロ:彼の政治的・市民的・精神的状態、および関連エッセイ、1916
- 民主主義にネグロは期待している、1919
- 「神々の復讐」と「リアル・アメリカン・カラー・ライン」と3つの物語、1922
- 破裂するしがらみ、ボストン:ヨルダン&その他、1923(二冊目の自伝)
- アメリカのイソップ:黒人のユーモア、1926
参照
[編集]- ^ Okocha, Victor. Pickens, William (1881-1954) at blackpast.org,
- ^ Dumain, Ralph. William Pickens (1881-1954) at Who’s Who in Colored America
さらに知るには
[編集]- Brewer, William M. The Journal of Negro History 39:3 (July 1954): 242-244.
- Avery, Sheldon. Up from Washington: William Pickens and the Negro Struggle for Equality, University of Delaware Press, 1989.
外部リンク
[編集]- William Pickens (1881-1954) at Who’s Who in Colored America
- Pickens, William (1881-1954) at blackpast.org