ウィリアム・ピゲニット
ウィリアム・ピゲニット William Charles Piguenit | |
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生誕 |
1836年8月27日 オーストラリア ホバート |
死没 |
1914年7月17日 オーストラリア Hunters Hill, New South Wales |
ウィリアム・ピゲニット(William Charles Piguenit、1836年8月27日 - 1914年7月17日)はオーストラリアの風景画家である。
略歴
[編集]タスマニア州の州都、ホバートで生まれた。父親はタスマニアの流刑地、ヴァン・ディーメンズ・ランドに送られた経歴の人物で、1833年にホバートで結婚した[1]。母親はホバートで女子のための学校を開いて、フランス語と音楽、絵画を教えた人物で、母親から影響されてピゲニットは芸術に対する関心をもった。
1850年にタスマニア測量調査局の製図工になり、タスマニアの地理調査で働き、地形図の版画制作などで働いた[2]。スコットランドから移住してきた画家のダネット(Frank C. Dunnett:1822-1891)から絵を学んだ。
画家として成功するのに時間がかかり、タスマニア州首相のアグニュー卿に絵が買い上げられ、役所を辞めて画家に専念することができたのは1872年になってからであった。その後すぐにタスマニアの風景画は評論家から好評を得た。タスマニアの西部の調査旅行に参加し、その風景画はタスマニア政府に買い上げられた[3]。
1880年にニューサウスウェールズに渡り、ダーリング川、ネピーアン川、ホークスベリー川、レーンコーブ川などの風景を描いた。ニューサウスウェールズ美術協会の創立メンバーとなった。タスマニア首相、ロバート・ハミルトンの夫人と知り合い、多くの作品がホバートの美術館のために買い上げられた。
代表作の『ダーリング川の洪水』は1895年にニュー・サウス・ウェールズ州立美術館に買い上げられた[4]。1898年と1900年にヨーロッパに旅し、ロンドンとパリで作品を展示した。オーストラリアに戻り、1901年にその年の最も優れたオーストラリアの風景画に贈られるウィン賞(Wynne Prize)を受賞した[5]。1903年にニュー・サウス・ウェールズ州立美術館の依頼でコジオスコ山を描いた。
1914年にシドニーで死去した。
作品
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『ダーリング川の洪水』(1895)
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Mount Olympus, Lake St Clair, Tasmania(1875)
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コジオスコ (1903)
脚注
[編集]- ^ W.C. Piguenit of Hunters Hill Archived 20 July 2008 at the Wayback Machine. at www.ryde.nsw.gov.au
- ^ Hobart Town: M.L. Henn, [1867]
- ^ “Noted Australian Artist: Death of Mr. Piguenit”. Daily Telegraph: 6. (20 July 1914) .
- ^ Piguenit, WC (1895年). “The flood in the Darling 1890”. AGNSW collection record. Art Gallery of New South Wales. 10 May 2016閲覧。
- ^ “Wynne Prize”. AGNSW prize record. Art Gallery of New South Wales (1901年). 10 May 2016閲覧。
参考文献
[編集]- Diary, 1871, 1873, 1875, State Library of Queensland
- Account of trips from Hobart Town to Port Davey 14 February 1871 – 9 March 1871, from Hobart Town to Lake St. Clair 8 Feb. 1873-10 Mar. 1873 and from Hobart Town to Queensland 13 September 1875 – 13 October 1875, including i.a. notes concerning sketches, photographs and landscape scenery.