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ウィリアム・マクレイヴン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィリアム・H・マクレイヴン
William H. McRaven
渾名 ビル(Bill
生誕 (1955-11-06) 1955年11月6日(69歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ノースカロライナ州の旗 ノースカロライナ州パインハースト
所属組織 アメリカ合衆国海軍の旗 アメリカ海軍
軍歴 1974年 - 2014年
最終階級 海軍大将
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ウィリアム・ハリー “ビル” マクレイヴン(「マクレイブン」「マクレーヴン[1]」「マクレーベン[2]」とも、英語: William Harry "Bill" McRaven1955年11月6日 - )は、アメリカ合衆国海軍軍人。最終階級は海軍大将

1977年に少尉任官して以来一貫して特殊作戦畑を歩み、在欧特殊作戦軍(SOCEUR)司令官(2006年6月 - 2008年3月)や統合特殊作戦コマンド(JSOC)司令官(2008年3月 - 2011年8月)などを歴任した。特にJSOC司令官在任中には、2011年5月2日アメリカ東部夏時間では5月1日)に行われた「ネプチューンの槍作戦」を指揮し、アメリカを中心とする諸国が2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件以降展開してきた対テロ戦争の中でも最大級の戦果となるアルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディン殺害に成功したことで知られる。

その後は、エリック・オルソン海軍大将の後任としてJSOCの上級部隊である特殊作戦軍(SOCOM)の司令官に大将への昇任と併せて補職された。

生い立ち

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1955年11月6日、テキサス州サンアントニオで3人姉弟の末っ子[3]として生まれる[4]。父親のクロード ・“マック”・マクレイヴン(Claude "Mac" McRaven)は、大学時代はカレッジ・フットボールのスター選手で、1939年に1年間のみではあるが、NFLのクリーブランド・ラムズ(現在のロサンゼルス・ラムズ)でプレイした経験を持つフットボーラーであるとともに[3][5]第二次世界大戦に従軍し、空軍大佐まで昇った軍人でもある[3][6][7]。マック・マクレイヴン大佐は戦闘機パイロットであり、第二次大戦中はスーパーマリン スピットファイアに搭乗し[7]イギリス海峡を横断して爆撃任務に向かう爆撃機を護衛(エスコート)する任務などに従事していた[4]

地元サンアントニオのセオドア・ルーズヴェルト公立高校を卒業後[4]、スポーツ奨学金陸上競技)を得るとともに[4]、海軍の予備役将校訓練課程(NROTC)制度を利用してテキサス大学オースティン校に進学[4][3][6][7][8]。大学ではジャーナリズムを専攻し、1977年に学位を得て卒業した[3][6][7][8]

海軍での経歴

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大学卒業後は海軍に少尉として任官。Navy SEALsの選抜試験に合格し訓練課程を修了後、SEALとして様々な任務を経験する。

指揮官としては、下級士官の頃にはSEALチーム4/第21水中爆破チームの小隊長や、SEALチーム6の旧名でも知られる海軍特殊戦開発グループ(DEVGRU)の中隊長を歴任[6][7][9]湾岸戦争にも参加し、砂漠の嵐砂漠の盾両作戦において任務部隊(task unit)を指揮したほか、湾岸戦争後にはSEALsの中でも中央軍(CENTCOM)管轄地域である中東を担当するSEALチーム3の司令官、第1海軍特殊戦グループの司令官を歴任している[6][7][9]

また、現場任務以外に参謀・幕僚としての任務経験も豊富で、特に対テロ任務に関する分野での経験が多い。国家安全保障会議対テロ対策室(Office of Combating Terrorism)の戦略計画部長や、第1海軍特殊戦グループの参謀長、特殊作戦軍司令部の評価担当部長、海軍作戦部長付スタッフなどを歴任している[9]

将官への昇任を果たしたのは2003年のことで、大佐として国家安全保障会議の戦略・国防問題担当部長を務めていた同年5月に准将に指名される[10]。この昇任人事は上院で承認され、同年8月には昇任にあわせて統合特殊作戦コマンド(JSOC)の作戦担当副司令官(deputy commanding general for operations)に任命・補職された[11]。JSOCの作戦担当副司令官在任中には、JSOC隷下の陸海空軍特殊部隊やCIA(中央情報局)の特殊作戦要員などで構成される任務部隊(タスクフォース)、「タスクフォース121」の司令官を務め、2003年12月13日イラクダウルにおいてアメリカ陸軍第4歩兵師団第1旅団との合同作戦として展開された「赤い夜明け作戦」(“Operation RED DAWN”)において、元イラク共和国大統領で、当時逃亡中であったサッダーム・フセインの捕獲に成功する戦果を挙げた[12]

在欧特殊作戦軍司令官時代のマクレイヴン(当時は少将)

2006年2月には少将に指名されるとともに[13]、さらに翌3月には在欧特殊作戦軍(SOCEUR)司令官兼欧州軍(EUCOM)特殊作戦担当部長に任命・補職された[14]

在欧特殊作戦軍司令官職には2006年6月に就任し、2008年3月までの2年近くにわたって同職を務めた[9]。在任中は、NATO(北大西洋条約機構)連合軍の指揮に当たる欧州連合軍最高司令部に新設された特殊作戦部隊調整センター(NATO Special Operations Forces Coordination Centre)の初代センター長にも就任し、NATO軍の特殊作戦部隊の作戦能力や相互運用性の増強を図る役割を担った[9]。この時の欧州連合軍最高司令官兼EUCOM司令官であったジェームズ・ジョーンズ海兵隊大将は上官にあたるが、マクレイヴンは、ジョーンズが退役後にバラク・オバマ政権下で国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めた折に、再び共に仕事をすることになる[7]

JSOC司令官として

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マクレイヴンは、在欧特殊作戦軍司令官だった2008年2月に中将への昇任と併せて統合特殊作戦コマンド(JSOC)の司令官に指名された[15]

この人事は上院の承認を得て、同年3月に前任者であるスタンリー・マクリスタル中将の後任として第11代JSOC司令官に就任した[9]。在任中にはイラク戦争およびアフガニスタン戦争における特殊作戦の指揮に当たった。マクレイヴンの司令官在任中、JSOCは夜間の奇襲作戦を増加させることで飛躍的に戦果を挙げていったとされる[7]。その一方で、夜間の奇襲作戦では一般市民が巻き添えで犠牲となるケースも多く発生したため、マクレイヴンはこれを減らすべくAC-130 ガンシップに白色照明設備を搭載させたという[7]。また、2009年9月にはイエメンに拠点を置くイスラム過激派テロ組織アラビア半島のアル・カーイダ」の掃討作戦を実施するべく、当時のアリー・アブドッラー・サーレハ大統領と交渉し、イエメン軍とアメリカ軍特殊部隊がイエメン国内で共同掃討作戦を実施する合意を得ることに成功した[7]

ウサーマ・ビン・ラーディン殺害作戦

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マクレイヴンが対テロ戦争において指揮した特殊作戦の中でも、最大級の戦果を挙げたのが2011年5月2日(アメリカ東部夏時間では5月1日)に実行されたウサーマ・ビン・ラーディン殺害作戦である。

マクレイヴンは同年2月に、当時のレオン・パネッタCIA長官(のちに国防長官)からバージニア州ラングレーのCIA本部に呼び出され、その際にビン・ラーディンが潜伏していたパキスタンアボッターバードの邸宅に関する情報を知らされるとともに、軍による攻撃作戦の立案を始めたという[4]

情報を受けたマクレイヴンは、作戦立案担当者やCIAとの検討の結果、3つの作戦案をオバマ大統領や政権首脳に提示した。第1案はB-2ステルス爆撃機あるいはトマホーク巡航ミサイルによりアボッターバードの当該邸宅を空爆する案(報道によれば2000ポンド級の爆弾を32発投下する案[16])、第2案はヘリコプターを用いてアメリカ軍特殊部隊により急襲する案、第3案はパキスタン軍の協力・支援を得て共同で攻撃する案であった[17]。このうち第3の選択肢であるパキスタン軍との共同作戦案は、パキスタン側にビン・ラーディン側に通ずる者(協力者・内通者)の存在を疑っていた政権首脳の「攻撃目標(ビン・ラーディン)に(パキスタン側が)警告しかねない」との懸念から排除された。次に第1案(空爆案)と第2案(ヘリ急襲案)の比較・検討がなされた。ゲーツ国防長官などは、ヘリによる急襲作戦はリスクが高く、1980年に実行されたイランアメリカ大使館人質事件人質救出作戦が失敗したこと[18]、あるいは1993年モガディシュの戦闘の際に多数の人的損失が出たことを想起させるため[17]、得策とは言えないとして反対し、第1案を支持した[16]。また、ヘリ急襲案の場合には、万が一作戦が失敗に終わった場合にはパキスタンとの関係悪化も懸念された[19]。しかし、爆撃案では直接戦闘が回避されるため米兵へのリスクは軽減されるものの、万が一ビン・ラーディンの殺害に成功したとしてもその遺体確認が困難になる、爆撃の精度等によっては民間人に多数の死傷者が出る恐れがある、などの欠点が想定された[19]。オバマ大統領は結局第2案を選択し、作戦準備などについてゴーサインを出した[16]。作戦を行うチームにはJSOC隷下の部隊であるDEVGRUから20人程度のSEALが選ばれ、綿密に作戦計画の確認と訓練が行われた。また、戦闘要員の輸送に用いるヘリは、「ナイト・ストーカーズ」の通称で知られる陸軍第160特殊作戦航空連隊が操縦を担当することとなった。作戦決行が最終的に決定されたのは、作戦実行2日前[20]の4月29日(金曜日)のことで、オバマ大統領が最終ブリーフィングを受けてから16時間後にゴーサインを出した[16]。この翌日、オバマ大統領はホワイトハウス記者団との夕食会に向けたリハーサルの合間にマクレイヴンに電話をし、幸運を祈る(=作戦の成功を祈る)旨の言葉をかけたという[16]

作戦決行時、マクレイヴンは指揮官としてアフガニスタンから部隊の指揮に当たるとともに、オバマ大統領などが状況を見守るホワイトハウスシチュエーション・ルーム(危機管理室)や、同様にパネッタ長官が状況を見守るCIA本部との中継回線を通じ、政権首脳への状況説明にもあたった[21]。作戦は、ホバリング中のUH-60 ブラックホーク(ステルス改修型)がトラブルを起こして墜落するというトラブルが途中発生したものの、作戦はビン・ラーディンと思われる人物の殺害と遺体の回収(さらには遺体とは別に骨髄も回収した)に成功するとともに[18]、懸念されたパキスタン軍による探知・追跡にもあうことなく終了した。のちに身長など身体的特徴の確認、さらにはDNA型鑑定によりビン・ラーディン本人と確認され、作戦の真のターゲットであるビン・ラーディンの殺害に成功したことが明らかになった。これは、アメリカを中心とする諸国が2001年9月11日同時多発テロ事件以降展開してきた対テロ戦争の中でも最大級の戦果となった。

この成功もあり、指揮官だったマクレイヴンは一躍時の人となった。タイム誌が選ぶ2011年のパーソン・オブ・ザ・イヤーでは、「抗議活動(デモ)参加者」(The Protesters)に次ぐ次点(runner-up)につけた。

SOCOM司令官への就任

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特殊作戦軍司令官交代式においてスピーチするマクレイヴン大将

2011年3月1日ロバート・ゲーツ国防長官(当時)はマイケル・マレン統合参謀本部議長と行った定例記者会見の冒頭で、オバマ大統領に対し、マクレイヴンを退役するエリック・オルソン海軍大将の後任となる第9代特殊作戦軍司令官に推薦したことを発表した[22]。この推薦を受けて、オバマ大統領は同年4月6日付で、マクレイヴンを大将への昇任と併せて次期特殊作戦軍司令官に指名した[23]

指名を受けて、高級将官人事を管轄する上院軍事委員会は、上院本会議での承認に先立ち6月28日公聴会を開催した[24]。この公聴会に出席したマクレイヴンは、次期特殊作戦軍司令官の候補者として、前任者となるオルソン大将が目指した毎年ごとの恒常的な人的資源成長率(steady manpower growth rate)を年3%から5%に向上させ、特殊部隊の作戦能力向上・拡充を図ろうとする計画に対して支持を表明するとともに、SOCOMの作戦能力維持・向上を図る上では、SOCOM創設から四半世紀が経過して老朽化が進んでいる特殊作戦用施設について改修や代替施設の新規建設が必要であること[25]アフガニスタンにおける特殊作戦任務をこれからも実施していく上では、支援任務にあたる固定翼機回転翼機や情報収集・監視・偵察任務(ISR任務)に充てる無人航空機(UAV)のさらなる導入が必要であることなどを述べた[25][26]。この公聴会の2日後、6月30日に開かれた上院本会議においてマクレイヴンの大将昇任・SOCOM司令官就任に関する人事案は全会一致で承認され、マクレイヴンの大将昇任とSOCOM司令官就任が決定した[27]

SOCOM司令官への就任式は、2011年8月8日にSOCOMの司令部があるフロリダ州タンパマクディール空軍基地で執り行われ、前任者であるオルソン大将に加えてパネッタ国防長官も同席した。海軍(SEALs)出身のSOCOM司令官は、前任者であるオルソン大将に続き2人目である。通常このような司令官交代式では、退任者・就任者はともに非戦闘時の軍服を着用することがほとんどであるが[28]、この時はマクレイヴン・オルソン両大将ともに戦闘時に着用する迷彩服を着用して式典に臨んだ[29]。司令官就任にあたってのスピーチで、マクレイヴンは「私たちは、この素晴らしい国を守るために皆さんが払った犠牲も、皆さんの愛する人が払った究極の犠牲(=生命)も決して忘れることはないだろう。」と述べ、戦死した特殊部隊員に対する哀悼の意を表した[6]

マクレイヴンの司令官就任後も、SOCOMは引き続き対テロ戦争など各地でのオペレーションで戦果を挙げている。2011年9月にはイエメンにおいて、「アラビア半島のアル・カーイダ」指導者であったアンワル・アウラキを無人機攻撃により殺害することに成功(CIAとの共同作戦)したほか、2012年1月には、ソマリアで武装グループに誘拐・監禁されていた2人の人道支援団体活動家、ジェシカ・ブキャナン(Jessica Buchanan、アメリカ人)とポール・ティステズ(Poul Hagen Thisted、デンマーク人)の救出作戦を実施し、2人の救出に成功するとともに容疑者である海賊9人を殺害している[30]

退役後

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一時は、ドナルド・トランプ大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官候補として報道されることもあったが、政権中枢入りをすることはなかった。そればかりか2018年11月には、トランプ大統領がウサマ・ビンラディンを殺害した急襲作戦を遠回しに批判。ウィリアム・マクレイヴン側もトランプ大統領に対する批難を行い対立構造となっている[31]

その他・パーソナル

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  • 2人の姉がおり、いずれもテキサス州に住んでいる[3][4]
  • 姉の1人ナン・マクレイヴンによれば、幼少の頃からスポーツ少年であり、小学校を卒業する頃にはスキューバ・ダイビングも始めていたという[3]。スキューバ・ダイビングについて、姉のナンは「007と関係があるのではないか(影響を受けたのではないか)」と語っている[3]
  • 既婚。3人の子供の父親でもある[3][6]
  • 湾岸戦争後に海軍大学院(NPS)に進学し、同大学院の国防分析学科(Defense Analysis Department)で特殊作戦や低烈度紛争(LIC)について研究し、1993年修士号を得て卒業している[7][9][32]。また、学生として研究に従事する一方で、同大学院が計画していた特殊作戦・低烈度紛争カリキュラムの創設に関わり、自らもこのカリキュラムの第1期卒業生となった[7][9][32]
  • 海軍大学院での研究の成果として、1993年6月には修士論文“The Theory of Special Operations”(日本語に訳せば『特殊作戦の理論』)をまとめている[33]。この論文は、特殊作戦の理論について過去の特殊作戦のケース・スタディなどを用いて分析・論説したものである。この修士論文は、のちに“Spec Ops: Case Studies in Special Operations Warfare Theory and Practice”として書籍化され、Presidio Press社から1995年に発売されている(翌1996年にはペーパーバック版として再版)。
  • 2014年には母校テキサス大学オースティン校の卒業式で来賓祝辞を述べ、「ここで始まることが世界を変える」をテーマに、自身のNavy SEALs訓練生時代の経験を元に、同僚を見つけることや諦めないことの大切さ、希望の持つ力について卒業生らに語り掛けた[34]

著作

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  • “Spec Ops: Case Studies in Special Operations Warfare Theory and Practice”(Presidio Press社、1995年発行、ISBN 978-0891415442) (ペーパーバック版は1996年発行、ISBN 978-0891416005)

関連項目

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脚注・出典

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  1. ^ 手嶋龍一『ブラック・スワン降臨―9・11-3・11 インテリジェンス十年戦争―』(新潮社、2011年12月)15ページ、20ページなど。
  2. ^ 「米政府がビンラディンの死体写真を隠す理由」 (日本語) ニューズウィーク日本版の記事。2011年9月29日掲載、2012年3月25日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i “Overseer of bin Laden raid to head Special Ops Command at MacDill” (英語) ウサーマ・ビン・ラーディン殺害作戦と、同作戦を指揮したマクレイヴンについて報じるセントピーターズバーグ・タイムズ(現タンパベイ・タイムズ)の記事。2011年5月6日掲載、2012年3月24日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g “Navy SEAL behind bin Laden mission hails from San Antonio” (英語) ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害作戦と、同作戦を指揮したマクレイヴンについて報じるサンアントニオのテレビ局KENSの記事。
  5. ^ さらにこの時期、アメリカの有名なシリアル食品ウィーティーズ」(Wheaties)の広告に登場したこともあるという。
  6. ^ a b c d e f g “SOCom gets new commander in ceremony at MacDill Air Force Base in Tampa” (英語) 特殊作戦軍の司令官交代式と、新任司令官であるマクレイヴンについて報じるセントピーターズバーグ・タイムズ(現在は改称しタンパベイ・タイムズ)の記事。2011年8月9日掲載、2012年3月24日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l “Adm. William McRaven” (英語) ワシントン・ポスト紙が運営する政府高官などの経歴等を紹介するサイト“Whorunsgov”のマクレイヴンを紹介する記事。
  8. ^ a b “UT alumnus commanded unit that killed mastermind of 9/11” (英語) ウサーマ・ビン・ラーディン殺害作戦をマクレイヴンが指揮したことを報じるテキサス大学オースティン校の学生新聞「ザ・デイリー・テキサン」の記事。2011年5月3日掲載、2012年3月24日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h “Admiral William H. McRaven Commander, United States Special Operations Command” (英語) アメリカ海軍のホームページで公開されているマクレイヴンの公式経歴紹介。
  10. ^ “FLAG OFFICER ANNOUNCEMENTS” (英語) 国防総省より2003年5月9日付で発表された海軍大佐30人の准将への昇任人事案。
  11. ^ “Flag Officer Assignments” (英語) 国防総省より2003年8月19日付で発表されたマクレイヴンなど海軍将官2人の任命・補職人事。
  12. ^ “Op planned by man who helped capture Saddam” (英語) ウサーマ・ビン・ラーディン殺害作戦について報じるザ・タイムズ・オブ・インディア紙の記事。2011年5月4日掲載、2012年3月25日閲覧。
  13. ^ “Flag Officer Announcements” (英語) 2006年2月3日付で公表された海軍軍人21人(准将20人、大佐1人)の昇任人事案。
  14. ^ “Flag Officer Assignments” (英語) 2006年3月6日付で発表されたマクレイヴンなど海軍将官2人の任命・補職人事。
  15. ^ “General/Flag Officer Announcements” (英語) 国防総省より2008年2月25日付で発表された将官指名人事。
  16. ^ a b c d e “Behind the Hunt for Bin Laden” (英語) ビン・ラーディン殺害作戦の背景・経緯について報道するニューヨーク・タイムズ紙の記事(全4ページ構成)。2011年5月2日掲載、2012年3月25日閲覧。
  17. ^ a b “Spy, Military Ties Aided bin Laden Raid” (英語) ビン・ラーディン殺害作戦について報じるウォールストリート・ジャーナル電子版の記事。2011年5月23日掲載、2012年3月25日閲覧。
  18. ^ a b 「ビンラーディン殺害作戦の詳細」 (日本語) NPO法人「中央アジア・コーカサス研究所」の公表しているレポート『最近の中東・エネルギー情勢から』(2011年8月5日号)より(執筆者は高橋和夫放送大学教授)。
  19. ^ a b 「ビンラディン容疑者殺害までの経緯、依然残る疑問」 (日本語) AFPBBの記事。2011年5月4日掲載、2012年3月25日閲覧。
  20. ^ 当初はアメリカ東部時間4月30日(土曜日)の決行を予定していたが、天候等の関係から5月1日に延期された。
  21. ^ 手嶋・前掲注(1)20ページ。
  22. ^ “DOD News Briefing with Secretary Gates and Adm. Mullen from the Pentagon” (英語) 2011年3月1日に国防総省で行われたゲーツ国防長官とマレン統合参謀本部議長の共同定例記者会見のトランスクリプト。
  23. ^ “Flag Officer Announcement” (英語) オバマ大統領が、マクレイヴンを大将への昇任と併せて次期特殊作戦軍司令官に指名した旨を公表する国防総省のリリース。
  24. ^ “June 28, 02011 - FULL COMMITTEE - To consider the nominations of…” (英語) 2011年6月28日に開かれた公聴会の出席者などについて公表する上院軍事委員会のホームページ。“Witnesses”(証人)の項目には、同時期に指名を受けたジェームズ・サーマン大将(当時は陸軍総軍司令官、のちに上院の承認を受け在韓米軍司令官に就任)やジョン・アレン海兵隊中将(当時はアフガニスタン・イラク問題担当統合参謀本部議長付特別補佐官、のちに上院の承認を受け国際治安支援部隊(ISAF)司令官兼在アフガニスタン米軍司令官に就任)とともにマクレイヴンの名がある。また、同ページには公聴会の様子を記録した映像(ウェブキャストのアーカイブがあり、マクレイヴンの証言を見ることもできる。
  25. ^ a b “NOMINATIONS OF GEN JAMES D. THURMAN, USA, FOR REAPPOINTMENT TO THE GRADE OF GENERAL AND TO BE COMMANDER, UNITED NATIONS COMMAND/COMBINED FORCES COMMAND/U.S. FORCES–KOREA; VADM WILLIAM H. MCRAVEN, USN, TO BE ADMIRAL AND COMMANDER, U.S. SPECIAL OPERATIONS COMMAND; AND LT. GEN. JOHN R. ALLEN, USMC, TO BE GENERAL AND COMMANDER, INTERNATIONAL SECURITY ASSISTANCE FORCE/COMMANDER, U.S. FORCES–AFGHANISTAN” (英語) 上院軍事委員会のホームページで公開されている2011年6月28日に開催された指名公聴会のトランスクリプト(議事録)。
  26. ^ “The Pentagon’s New Power Elite” (英語) アメリカ軍における特殊部隊の役割の増大について解説するアメリカのメールマガジンカウンターパンチ」の記事。2011年8月4日掲載、2012年3月25日閲覧。
  27. ^ “NOMINATIONS CONFIRMED (NON-CIVILIAN)” (英語) 上院のホームページで公開されている、上院本会議において承認された非文民(軍人)の指名人事一覧。2011年6月30日付で承認された人事の中に、マクレイヴンの名がある。
  28. ^ 戦地で執り行われる就任式などを除けば、例えばマクレイヴンのような海軍将官の場合であれば、季節による違いはあるが、基本的にフルドレスないしはサービスドレスを着用することが多い。
  29. ^ 交代式の2日前である8月6日に、アフガニスタンのヴァルダク州でアメリカ軍とアフガニスタン軍の特殊部隊兵士37人を乗せたCH-47 チヌークターリバーンからロケット弾による攻撃を受けて撃墜され、乗員全員(さらに同乗していた軍犬1頭も死んでいる)と市民1人が巻き添えになって死亡した事故があったことも影響していると考えられる。詳しくは英語版en:2011 Chinook shootdown in Afghanistanを参照されたい。
  30. ^ 「ソマリアで人質2人救出、米特殊部隊が武装勢力を急襲」 (日本語) AFPBBの記事。2012年1月26日掲載、2012年3月25日閲覧。
  31. ^ トランプ大統領は戦闘地域を訪問するのが怖い? 本人は「いずれ分かるだろう」と語る”. Businessinsider Japan (2018年11月21日). 2019年1月3日閲覧。
  32. ^ a b “Distinguished Alumni” (英語) 主要な卒業生について紹介した海軍大学院のホームページ。
  33. ^ マクレイヴンの修士論文に関する情報
  34. ^ University of Texas at Austin 2014 Commencement Address - Admiral William H. McRaven - YouTube

外部リンク

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“Admiral William H. McRaven Commander, United States Special Operations Command” (英語) アメリカ海軍のホームページで公開されているマクレイヴンの公式経歴紹介。

軍職
先代
トーマス・シュランコ
在欧特殊作戦軍司令官

アメリカ欧州軍特殊作戦部長

2006年 - 2008年
次代
フランク・J・キスナー
先代
スタンリー・マクリスタル
統合特殊作戦コマンド司令官
2008年 - 2011年
次代
ジョゼフ・ヴォーテル
先代
エリック・オルソン
アメリカ特殊作戦軍司令官
2011年8月8日 - 2014年8月28日
次代
ジョセフ・ヴォーテル英語版