ウォルター・バトラー (初代オーモンド侯爵)
初代オーモンド侯爵ウォルター・バトラー(英語: Walter Butler, 1st Marquess of Ormonde KP PC (Ire) FSA、1770年2月4日 – 1820年8月10日)は、アイルランド貴族。1791年から1795年までサールス子爵の儀礼称号を使用した[1]。
生涯
[編集]第17代オーモンド伯爵ジョン・バトラーと妻スーザン・フランシス・エリザベス(Susan Frances Elizabeth、1754年6月8日 – 1830年4月3日、初代ワンズフォード伯爵ジョン・ワンズフォードの娘)の息子として、1770年2月4日に生まれた[1]。1783年から1785年までイートン・カレッジで教育を受けた[1]。
1790年から1795年までキルケニー県選挙区の代表としてアイルランド庶民院議員を務め、1795年12月30日に父が死去するとオーモンド伯爵位を継承した[1]。1797年7月11日にアイルランド枢密院の枢密顧問官に任命された[1]。
1798年3月19日に聖パトリック勲章を授与され、1801年1月20日に連合王国貴族であるモンマス州におけるランソニーのバトラー男爵(Baron Butler of Lanthony)に叙され、1816年1月にアイルランド貴族であるオーモンド侯爵に叙された[1]。1803年2月10日にロンドン考古協会フェローに選出された[1]。また、1811年にはエドワード1世より与えられたアイルランドのワインに対するprisage(課税の一種)への世襲権を放棄する代償として、216,000ポンドを受け取った[1]。
1820年8月10日にケント州の自宅で死去、オーモンド侯爵位とランソニーのバトラー男爵位は廃絶した[1]。一方、オーモンド伯爵の爵位は弟ジェームズ・ワンズフォードが継承した[1]。
家族
[編集]1805年3月17日、アンナ・マリア・キャサリン・プリース=クラーク(Anna Maria Catherine Price-Clarke、1789年ごろ – 1817年12月19日、ジョブ・ハート・プリース=クラークの娘)と結婚した[1]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k Cokayne, George Edward; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas, eds. (1945). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Oakham to Richmond) (英語). Vol. 10 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 164–165.
アイルランド議会 | ||
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先代 ウィリアム・ブラバゾン・ポンソンビー ヘンリー・ウェルボア・エイガー |
庶民院議員(キルケニー県選挙区選出) 1790年 – 1795年 同職:ウィリアム・ブラバゾン・ポンソンビー |
次代 ウィリアム・ブラバゾン・ポンソンビー ジョン・ワンズフォード・バトラー |
アイルランドの爵位 | ||
爵位創設 | オーモンド侯爵 1816年 – 1820年 |
廃絶 |
先代 ジョン・バトラー |
オーモンド伯爵 1795年 – 1820年 |
次代 ジェームズ・ワンズフォード・バトラー |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | ランソニーのバトラー男爵 1801年 – 1820年 |
廃絶 |