ウスタシュ・ル・シュウール
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ウスターシュ・ル・シュウール Eustache Le Sueur | |
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生誕 |
1617年11月19日 フランス,パリ |
死没 |
1655年4月30日 フランス,パリ |
ウスターシュ・ル・シュウール(Eustache Le Sueur または Lesueur、1617年11月19日 - 1655年4月30日)はフランスの画家である。
略歴
[編集]パリで木工工芸家の息子の生まれた。イタリアのバロック絵画をフランスに伝えたとされる、シモン・ヴーエ(1590-1649)の弟子になった。共に学んだ画家には、シャルル・ルブランやピエール・ミニャールがいる。ルブランらがイタリアで学んだのに対してル・シュウールは国外に出ることなく、パリに集められたルネサンスの画家たちの作品から学んだ。
初期の作品は、ヴーエのスタイルの影響を受けていたが自らのスタイルを確立した。1642年に、ゴブラン織の王立工場のために、イタリア・ルネサンスの物語、『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』に題材をとった8点の作品を描き、いくつかはタペストリーに織り上げられた。
1845年にシャルトリューズ・ド・パリ(Chartreuse de Paris、シャトリューズ修道院)の装飾画として宗教的な題材の作品を描き、王室に作品が買い上げられた。
1648年に設立された王立絵画彫刻アカデミーの主要幹部の一人となり、 シャルル・ルブランらとともに、最初の12人の教授の一人となった[1]。裕福な人々のために多くの装飾画を描いた。
弟子にはジャン・クレルモン(Jean Clermont)やクロード・ルフェーブル(Claude Lefèbvre:1632-1675)らがいる。
作品
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『コリオラヌスにローマを救うよう嘆願する彼の家族』 (1638-1640年)
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『エルサレムの神殿での聖母マリア』 (1640-1645年)
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『ランスの学校で神学を教える聖ブルーノ』 (1645-1648年)
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『受胎告知』 (1650年頃)
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『メルポメネ、エラート、ポリュムニア』 (1652-1655年)
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『エフェソスでの聖パウロの説教』
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『聖マルタンのミサ』 (1654-1655年)
脚注
[編集]- ^ Mémoires pour servir à l'histoire de l'Académie royale de Peinture et de Sculpture depuis 1648 jusqu'en 1664, Ed. Anatole de Montaiglon, Paris 1853, vol. I, p. 36.
参考文献
[編集]- Eustache Le Sueur peintre, dans Charles Perrault, Les Hommes illustres qui ont paru en France pendant ce siècle, chez Antoine Dezallier, 1697, tome 1, p. 93-94 (lire en ligne) [archive]
- Charles de Pougens, Galerie de Lesueur, ou Collection de tableaux représentant les principaux traits de la vie de S. Bruno, faisant suite au Cours de peinture, ou Musée de M. Filhol, dessinée et gravée par Georges Malbeste, accompagnée de sommaires descriptifs et de notices sur la vie de S. Bruno et sur celle de Lesueur (1825).
- Alain Mérot, Eustache Le Sueur, 1616-1655, 1987, éd. Arthena.
- Alain Mérot, Eustache Le Sueur 1616-1655, 2000, éd. Arthena (réédition, revue et corrigée de l'édition de 1987), (ISBN 2-903239-26-6)
- Barbara Brejon de Lavergnée, Alain Mérot, Serge Lemoine, Laurent Salomé, Eustache Le Sueur. Musée de Grenoble, 19 mars - 2 juillet 2000, 2000, éd. RMN