ウラジーミル・アガペーエフ
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ウラジーミル・アガペーエフ(ロシア語: Владимир Петрович Агапеев、1876年 - 1956年5月6日)は、ロシア帝国、白軍の軍人、参謀本部中将。
経歴
[編集]軍歴
[編集]第1幼年団(幼年学校)、ニコライ騎兵学校(士官学校)、ニコライ参謀本部アカデミー(1901年)を卒業。士官学校卒業後、近衛軽騎兵陛下連隊に配属。日露戦争に従軍し、第3ザアムール旅団参謀長で終戦を迎えた。
- 1907年~1909年:駐セルビア軍事エージェント(駐在武官)
- 1909年:駐ベルギー・オランダ駐在武官、大佐
- 1914年:第10騎兵師団参謀長
- 1915年:第2近衛驃騎兵パヴログラード連隊長。少将に昇進
- 1916年:第6騎兵軍団参謀長
- 1917年:第35軍団参謀長
- 1917年~1918年2月:ユゼフ・ドヴブル=ムシニツキ将軍指揮下のポーランド軍団参謀長
白軍
[編集]1918年春、B.シュテインフォンとアレクセイ・フォン・ラムペが率いるハリコフの義勇軍地下センターに加わる。同年末、エカテリンブルクに移り、義勇軍本部に入った。
1919年1月、第2軍団参謀長に任命。4月、アントーン・デニーキンは、アガペーエフを参謀長として承認せず、エフィモフ将軍と交代した。6月3日、中将に昇進。8月、コンスタンチノープルの連合司令部附属南ロシア軍軍事代表に任命。
1920年3月末、代表を解任され、ルコムスキー中将と交代した。
その後
[編集]その後、ユーゴスラビアに亡命し、ロシア全軍連合第4課の活動に従事しつつ、測量軍事大学に勤務した。
1941年、65歳のアガペーエフは、ロシア警備軍団に兵卒として登録された。軍団が東部戦線に送られないことを確信し、1942年秋、オーストリアに移り、チリに移民した。
1950年、アルゼンチンに移り、1956年5月6日、ブエノスアイレスで死去した。
著書
[編集]- 「1914年8月の第10騎兵師団の戦闘に関するケレル伯爵の報告」(軍事選集第6巻、ベオグラード、1925年)
- 「ロマノフスキー将軍の暗殺」(ベーロエ・ジェロー第2巻、ベルリン、1927年)