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ウラジーミル・スヴャトスラヴィチ (ノヴゴロド公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウラジーミル・スヴャトスラヴィチ
Владимир Святославич
ノヴゴロド公
フシチイシュ公
ウラジーミルの葬儀
在位 ノヴゴロド公:1180年 - 1181年
フシチイシュ公:1181年 - 1201年

死去 1200年
子女 プレブラナ・ミハイロヴナ
家名 リューリク家
父親 チェルニゴフ公キエフ大公スヴャトスラフ
母親 マリヤ・ヴァシリコヴナ
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ウラジーミル・スヴャトスラヴィチロシア語: Владимир Святославич、? - 1200年秋[1])は、チェルニゴフ公キエフ大公スヴャトスラフマリヤポロツク公ヴァシリコの娘)との間の子である。ノヴゴロド公:1180年 - 1181年、フシチイシュ公:1181年 - 1201年。聖名ボリス。

生涯

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1175年、ウラジーミルは父によって、ウラジーミル大公国ミハイルフセヴォロド兄弟の援軍の長として派遣された。(ミハイルらはこの時甥のムスチスラフヤロポルク兄弟との闘争を繰り広げていた。)1177年には兄弟のオレグ(ru) と共に、チェルニゴフ軍を指揮してフセヴォロドの援軍に向かい、リャザン公グレプと戦った(コロクシャの会戦(ru))。

1180年にノヴゴロド公となり、スモレンスク公ダヴィドと、ドルツクで対峙するチェルニゴフ軍への援軍を派遣した。しかしノヴゴロド軍の不在の間に、ノヴゴロド領のトルジョークをフセヴォロド(上記のフセヴォロド)に奪われた。この行為はノヴゴロドの人々にとって、自分たちの公を誰にするかという重要な選択を迫る役割を演じることになった[注 1]。ウラジーミルは追放され、ルーシ南部の父の元に身を寄せた。なおノヴゴロド公位にはヤロスラフが就いた。

1185年ノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリらがポロヴェツ族に敗れた後[注 2]、ウラジーミルと兄弟のオレグは、ポロヴェツ族グザークの軍からポセミエ地方の防衛に成功した。1191年にはイーゴリの指揮するポロヴェツ族への遠征に参加した。

イーゴリ軍記』の研究者であるA.チェルノフは、ウラジーミルを『イーゴリ軍記』の作者とする仮説を立てている[2]

妻子

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妻はウラジーミル大公ミハイルの娘・プレブラナ(聖名マリヤ・1178年結婚)。子は残さなかったという説と[1]モンゴルのルーシ侵攻の際に戦死した数人の子がいたという説がある[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ ノヴゴロド公国はヴェーチェ(民会)の権限が大きく、しばしば公の招聘、追放がヴェーチェの決定によってなされた。
  2. ^ これらの戦いが『イーゴリ軍記』の題材になっている。

出典

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  1. ^ a b Dimnik, Martin. The Dynasty of Chernigov - 1146-1246.
  2. ^ Чернов А. Ю. Хроники изнаночного времени. — СПб., 2006.
  3. ^ Войтович Л. 3.7. ОЛЬГОВИЧІ. ЧЕРНІГІВСЬКІ І СІВЕРСЬКІ КНЯЗІ // КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ

参考文献

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  • Dimnik, Martin: The Dynasty of Chernigov - 1146-1246; Cambridge University Press, 2003, Cambridge