エアステ・クラッセ1911-1912
エアステ・クラッセ | |
開催国 | オーストリア=ハンガリー帝国 |
---|---|
優勝 | SKラピード・ウィーン (1回目) |
試合総数 | 110 |
ゴール数 | 518 (1試合平均 4.71点) |
得点王 |
ヨハン・シュヴァルツ (ファースト・ヴィエナFC) (22点) |
1912-13 → |
エアステ・クラッセ1911-1912は、ニーダーエスターライヒサッカー協会 (Niederösterreichischer Fußballverband = NÖFV)によって開催された第1回目のサッカーリーグである。公式記録上ではオーストリア1部リーグの第1回目のシーズンである[1]が、ウィーンとニーダーエスターライヒのクラブチームにしか参加権がなかった。
リーグができるまで
[編集]前述のとおりこのリーグを創設・運営したのは帝都ウィーンに本拠地を置く協会NÖFVであり、オーストリアサッカー協会の運営するリーグではなかった。これまでウィーンではカップ戦形式のチャレンジカップ (1897- 1911)[2]、オーストリアサッカー連合 (協会の前身)がウィーン市内のクラブを対象に開催した短命なリーグ戦タークブラット・ポカール (1900 - 1903)[3]といったサッカー大会が行われた。
タークブラット・ポカールが長続きしなかった理由は、限られた余暇時間と視界の悪いグラウンドといった悪条件下で、過剰に多くの試合を開催したことにあった。劣悪な環境は改善されないまま、第3回シーズン限りでこのリーグ戦は消滅した。オーストリアサッカー協会はウィーンの優れたクラブを集めてリーグ戦を再建しようとしたが、クラブチームの試合の観客数がナショナルチームに及ばない状態にあって、各クラブは消極的なまま年月が過ぎていった。この間に協会主導で他の都市や帝冠領のクラブも交えたリーグ戦がウィーンで毎年行われていたが、最終順位表の記録がまったく残っておらず、公式記録として残るようなシーズンはなかった[4]。
この1911年5月に誕生したばかりのNÖFVは、オーストリア協会に代わってより整備されたリーグの創設に着手し、各クラブに対し参入条件を緩やかにした。当時ウィーンとニーダーエスターライヒには107ものクラブチームが存在したが、NÖFVはイングランドのフットボールリーグの初年度が12クラブで始まったことを参考に、その中から12クラブを選出した。DFCプラハ、テプリツァーFK、グラーツァーAK、KSクラコヴィアの4クラブは、前述の非公式なウィーンサッカーリーグに参加していたという記述が存在するが[5]、エアステ・クラッセの参加資格は与えられなかった。
最後に選ばれたASVヘルタ・ウィーンは、先に選ばれた11クラブが前年度の非公式リーグで1部所属だったのに対し、その下の2部リーグで優勝したことで選ばれた。実際にはレンヴェーガーSVという別のクラブが非公式2部リーグで優勝していたのだが、多くの対戦相手から「ホームグラウンドが規定より1メートル狭いので違反をしている」という指摘を受けタイトルを剥奪されたため、繰り上がりでヘルタ・ウィーンがエアステ・クラッセ初年度「オリジナル12」に加わったのである[6]。
結果
[編集]エアステ・クラッセの初年度シーズンは、1911年9月8日から1912年6月30日までホーム・アンド・アウェー2回戦総当たりで行われた。SKラピード・ウィーンが優勝し、初代王者となった。11位のヴィエナ・クリケット・アンド・フットボールクラブは2部リーグ「ツヴァイテ・クラッセA」に自動降格した。ACヴィクトリア・ウィーンは第4節終了後にヴィエナ・クリケットと合併し消滅したので、当該対戦結果はすべて抹消された。9位のASVヘルタ・ウィーンと10位のSpCルドルフスヒューゲルは、ツヴァイテ・クラッセA優勝のSCヴァッカー・ウィーンとのプレーオフに出場した[7]。
最終順位
[編集]順 | チーム | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 差 | 点 | 出場権または降格 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | SKラピード・ウィーン | 20 | 15 | 1 | 4 | 64 | 31 | +33 | 31 | |
2 | ヴィーナー・シュポルトクラブ | 20 | 13 | 4 | 3 | 53 | 35 | +18 | 30 | |
3 | ヴィーナー・アソシエーションFC | 20 | 13 | 3 | 4 | 59 | 23 | +36 | 29 | |
4 | ヴィーナーAC | 20 | 10 | 5 | 5 | 59 | 41 | +18 | 25 | |
5 | 1・ジンメリンガーSC | 20 | 9 | 3 | 8 | 57 | 63 | −6 | 21 | |
6 | ファースト・ヴィエナFC | 20 | 9 | 2 | 9 | 50 | 36 | +14 | 20 | |
7 | フロリドスドルファーAC | 20 | 9 | 1 | 10 | 61 | 53 | +8 | 19 | |
8 | ヴィーナー・アマテウレSV | 20 | 5 | 5 | 10 | 42 | 51 | −9 | 15 | |
9 | ASVヘルタ・ウィーン[8] | 20 | 6 | 2 | 12 | 25 | 50 | −25 | 14 | |
10 | SpCルドルフスヒューゲル | 20 | 5 | 4 | 11 | 39 | 42 | −3 | 14 | |
11 | ヴィエナ・クリケット・アンド・フットボールクラブ | 20 | 0 | 2 | 18 | 12 | 96 | −84 | 2 |
順位 | 点数 | 選手 | 所属 |
---|---|---|---|
1 | 22 | ヨハン・シュヴァルツ | ファースト・ヴィエナ |
2 | 20 | アドルフ・フィシェラ | ヴィーナー・アソシエーション |
3 | 16 | ヨハン・ノイマン | ヴィーナーAC |
4 | 15 | ヨーゼフ・クディン | ジンメリンガー |
5 | 13 | ルードヴィヒ・フッサーク | ヴィーナー・アマテウレ |
ヨハン・シュトゥドニツカ | ヴィーナーAC |
プレーオフ
[編集]1回戦
[編集]まず最初にエアステ・クラッセの9位と10位が2試合制で対戦した。試合はレギュラーシーズン終了後の1912年7月28日と8月11日に行われ、ホーム・アウェイ合計6-2でヘルタ・ウィーンが勝利し、1部残留を決めた。
チーム #1 | 合計 | チーム #2 | 第1戦 | 第2戦 |
---|---|---|---|---|
ASVヘルタ・ウィーン | 6-2 | SpCルドルフスヒューゲル | 3-1 | 3-1 |
2回戦
[編集]1回戦で敗れたルドルフスヒューゲルとエアステ・クラッセA1911-1912優勝のSCヴァッカー・ウィーンが1試合制で対戦した。試合は1912年8月25日に行われ、ルドルフスヒューゲルが6-0のスコアで圧勝し、1部残留を決めた。敗れたヴァッカー・ウィーンの来季2部残留が決定した。
チーム #1 | スコア | チーム #2 |
---|---|---|
SpCルドルフスヒューゲル | 6-0 | SCヴァッカー・ウィーン |
ここでは、1911-1912シーズン中のオーストリア・ハンガリー帝国のその他の行政区分・民族別サッカー協会の下でのクラブサッカー動向を記述する。この帝国には全体を統括するサッカー協会はなく、主として民族別に協会が作られ、ナショナルチームやリーグ戦を個別に組織していた。
オーストリア内部では、「ドイツ=アルペンラントサッカー協会」 (Deutsch-Alpenländische Fußballverband)が1911年7月2日にグラーツで創設されたが、このシーズン中にはまだリーグ戦を開催しなかった。シュタイアーマルクでは1911年にリーグ戦とカップ戦が行われた記録が存在する[11]。
1911年6月25日にオーストリアサッカー協会の支部として「ボヘミア・ドイツサッカー協会」(Deutsche Fußball-Verband für Böhmen)が創設されたが、この協会が運営するリーグ戦の始動は1912-1913シーズンまで待たなければならなかった。一方、ボヘミアでは既に民族別協会のひとつ「チェスキー・スヴァズ・フォトバロヴィー」 (Český svaz fotbalový/チェコサッカー協会の前身組織)が、非公式にではあるがチェスコスロヴェンスカー・フォトバロヴァー・リガの流れにつながっていくサッカー大会を1896年から毎年開催していた。1911年度はSKスラヴィア・プラハが、1912年度はACスパルタ・プラハが優勝した[12]。
この地にオーストリアサッカー協会の支部「メーレン=シュレジエン・ドイツサッカー協会」 (DeutschenFußball-Verbandes für Mähren und Schlesien)が設立されるのは1913年7月13日で、まだ先のことである。地元のクラブは自主的に大会を行っており、この年はメーレンのトロッパウで、DSVトロッパウが同じ街の3つのクラブと合同でリーグ戦を行い優勝した。そしてシュレジエンのビエリッツのBBSVビエリッツと2試合制で対戦し、DSVトロッパウが合計8-6で勝利している[13]。
1911年6月25日にオーストリアサッカー協会の支部「ポーランド・ドイツサッカー協会」 (Deutscher Fußball-Verband für Polen)が、レンベルクに設立された。発起人および初代会長はクラカウのスタニスラウ・コペルニスキであった。地元のサッカーリーグを開始するのは、1912-1913シーズンからである。
二重帝国においてオーストリアと同等の地位を享受していたハンガリーは、ウィーンのエアステ・クラッセ創設に先立つこと10年前の1901年、すでにハンガリーサッカー連盟がブダペストのクラブチームを対象にしたサッカーリーグ「ネムゼティ・バイノクシャーグ」をスタートさせていた。このシーズンの優勝はフェレンツヴァーロシュTCである (7回目)[14]。
脚注
[編集]- ^ Tamas Karpati. “Austria - List of Champions”. RSSSF. 2022年4月28日閲覧。
- ^ Javier García, Ambrosius Kutschera, Hans Schöggl, Karel Stokkermans. “Austria/Habsburg Monarchy - Challenge Cup 1897-1911”. RSSSF. 2022年4月28日閲覧。
- ^ Ambrosius Kutschera, Hans Schöggl, Karel Stokkermans. “Austria - Tagblatt-Pokal 1900-1903”. RSSSF. 2022年4月28日閲覧。
- ^ Ambrosius Kutschera, Hans Schöggl, Karel Stokkermans. “Development of 1st Class membership since 1904.”. RSSSF. 2022年4月28日閲覧。
- ^ Ambrosius Kutschera, Hans Schöggl, Karel Stokkermans. “Development of 1st Class membership since 1904.”. RSSSF. 2022年4月28日閲覧。
- ^ Peter Kungler. “[1910/11 http://www.rsssf.com/tableso/oost-tagblatt.html#11]”. RSSSF. 2022年4月22日閲覧。
- ^ Ambrosius Kutschera. “Austria 1911/12”. RSSSF. 2022年4月28日閲覧。
- ^ ファースト・ヴィエナとの試合で3-4で敗戦したが、相手が出場資格のない選手を試合に出していたため、スコアを逆にして4-3でヘルタの勝利と判定された。これにより勝ち点が2増えた。
- ^ Ambrosius Kutschera. “Statistik Ö1 (1.Klasse) NÖ Fußballverband 1911/12”. Austria Soccer. 2022年4月28日閲覧。
- ^ Ambrosius Kutschera. “Statistik Ö1 (1.Klasse) NÖ Fußballverband 1911/12”. Austria Soccer. 2022年4月28日閲覧。
- ^ Hans Schöggl, Ambrosius Kutschera. “Steiermark 1894-1920”. RSSSF. 2022年4月28日閲覧。
- ^ Malcolm Hodgson, Zbynek Pawlas. “Czechoslovakia 1896-1917”. RSSSF. 2022年4月28日閲覧。
- ^ Karel Stokkermans. “Czech Republic - List of Champions”. RSSSF. 2022年4月28日閲覧。
- ^ Támas Kárpáti, Jan Schoenmakers. “1911/12.évi bajnokság”. RSSSF. 2022年4月28日閲覧。
外部リンク
[編集]- Austria Soccer:Saison 1911/12 (ドイツ語)
- RSSSF:Austria 1911/12 (英語)