エカテリーナ・ブレシコ=ブレシコフスカヤ
エカテリーナ・ブレシコ=ブレシコフスカヤ Екатерина Константиновна
Брешко-Брешковская | |
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エカテリーナ・ブレシコ=ブレシコフスカヤ(1918年) | |
通称 |
バブーシカ 革命の祖母 |
生年 | 1844年1月25日[1] |
生地 | ロシア帝国ヴィテプスク県ネヴェルスキー、イヴァノヴォ |
没年 | 1934年9月12日(90歳没) |
没地 | チェコスロバキア プラハ(現在のプラハ20) |
思想 | 社会主義 |
活動 | ロシア革命 |
所属 | 社会革命党、社会革命党戦闘団 |
エカテリーナ・コンスタンチノヴナ・ブレシコ=ブレシコフスカヤ(ロシア語: Екатери́на Константи́новна Бре́шко-Брешко́вская、ラテン文字表記の例:Yekaterina Konstantinovna Breshko-Breshkovskaya、旧姓ヴェリゴ、ロシア語: Вериго、ラテン文字表記の例:Verigo、1844年1月25日(ユリウス暦1月13日) - 1934年12月9日)は、ロシア帝国の革命家。社会革命党(エスエル)創設者の一人。「ロシア革命の祖母」として知られる[2]。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]1844年1月25日(ユリウス暦1月13日)、ロシア帝国ヴィテプスク県ネヴェルスキー郡イヴァノヴォ村(現在のベラルーシ共和国ヴィーツェプスク州)に生まれた。生家のヴェリゴ家は貴族の家柄である。少女時代をチェルニゴフ県ムグリン郡(現在のブリャンスク州ムグリン地区)の同家の荘園で過ごす。兄弟のニコライとヴァシーリーがおり、ニコライはムグリン郡判事を務めた。高等女学校を卒業した後、父コンスタンチンを助けて農奴解放、学校の開設、貯蓄銀行の設立などに力を尽くした。1868年ニコライ・ブレシコ=ブレシコフスキーと結婚した。
革命家
[編集]26歳のとき、ミハイル・バクーニンのサークルに加わるため、キエフに移る。ナロードニキ運動に参加しかどで1874年にカトルガで拘束され、1878年シベリア流刑となった。1896年に釈放された後は社会革命グループに属し、1901年社会革命党結成に参加する。
1900年スイスとアメリカ合衆国に亡命する。1905年ロシアに帰国するが、逮捕され東シベリアに流刑となる。1917年二月革命が起こると他の政治犯とともに釈放される。アレクサンドル・ケレンスキー内閣が成立すると官職に就くが、十月革命が起こると再び国外に亡命を余儀なくされた。1934年12月9日、チェコスロバキアで死去。
息子のニコライ・ブレシコ=ブレシコフスキーは作家。
脚注
[編集]- ^ Дату по старому стилю приводит биографический словарь «Политические деятели России. 1917» ; БСЭ указывает дату рождения 22 января (3 февраля) 1844 и Саратов как место рождения Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров. — 3-е изд. — М. : Советская энциклопедия, 1969—1978.; также встречается в источниках и 1843 год «Деятели революционного движения в России».
- ^ Waraich, Malwinder Jit Singh (2007). Musings from the gallows : autobiography of Ram Prasad Bismil. Unistar Books, Ludhiana. p. 90