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エジプト・ヒッタイト平和条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カルナック神殿のカシェ西側外壁に記された条約文

エジプト・ヒッタイト平和条約は、紀元前1269年[注釈 1]エジプト第19王朝ヒッタイトの間で調印された外交条約。銀の条約とも呼ばれる。

書面による明確な物証を伴った[2]最初の平和条約であり、紀元前1285年頃のカデシュの戦いから16年後に、エジプトのラムセス2世とヒッタイトのハットゥシリ3世の間で正式に結ばれた[3]エジプト文字と、楔形文字によるヒッタイト-アッカド語で記された条約の複製2通りが作成され、いずれも現存している。エジプト版は、和平を求めたのはヒッタイトの王であったと記されており、ヒッタイト版では、使者を送ってきたのはラムセス2世だったと書かれている点で相違が見られる。

歴史

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戦後、ラムセス2世が自軍の勝利を宣言した[1]にもかかわらず、優勢であったヒッタイト[4]もまた勝利を主張し[1]、ヒッタイトはカデシュを含むシリアのほぼ全ての地域に影響力を拡大し、両勢力間で不安定な状態が続いた。政治面でも影響力を有していたハットゥシリ3世の妃プドゥヘパ[5]とラムセス2世の妃ネフェルタリは、王たちよりも盛んに書簡を交わし、双方の働きかけにより、ハットゥシリ3世はハットゥシャで条約文を起草してエジプトのタニスに送り、それをラムセス2世の書記官が審査した。

条約文には神々への誓い・互いの勢力圏の策定[2]・有事の際の相互援助[6]・逃亡者が出た場合の送還規定などいくつかの条項が含まれており、神々に対する一連の呼びかけと、条約を破った人間に対する呪い、そして条約が有効である間、全ての人々へのあらゆる幸福を祈願する言葉で締めくくられている。神々の召喚の下になされた条約を破ることは、神の律法に背くことと同意義であった。

調印後、エジプト版の複製がカルナックにあるラーアメンの神殿に、ヒッタイト版の複製がハットゥシャにあるテシュブ英語版神殿にそれぞれ納められた。

条約が結ばれた後、その取り決めは尊重され、それ以来、両国間で多くの交易が行われるようになった[7]。エジプトの建築家がヒッタイトの宮廷に招かれ、青銅器を用いていたエジプトでは鉄器が扱われるようになった。その後、ラムセス2世の治世34年目に対応する紀元前1256年、ファラオとヒッタイト王は婚姻をもって[1]条約を統合した。ハットゥシリ3世の娘がラムセス2世の妃としてエジプトに送られ[8]マーホル・ネフェル・ラー英語版の名前で偉大なる王の妻となった。エジプトとヒッタイトは、ヒッタイトが「海の民」によって滅ぼされる紀元前1190年までの間、平和を維持した。

1906年粘土板に書かれた版がボガズキョイで出土した[3]1970年9月24日に粘土板のレプリカがトルコ共和国政府から国際連合に寄贈され、式典にはトルコ外相のイフサン・サブリ・チャーラヤンギル英語版事務総長ウ・タントが出席した[3]。現在、レプリカはニューヨークにある安全保障理事会会議室北側の入り口に展示されている[3]

楔形文字で条約文が記された粘土板(ベルリン新博物館蔵)

脚注

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注釈

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  1. ^ 紀元前1259年ともされる[1]

出典

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参考資料

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  • 安田芳「ハットゥシリ三世時代の対アムル政策」『史論』第58巻、東京女子大学学会・東京女子大学史学研究室、2005年、69-90頁、ISSN 03864022NCID AN00119350CRID 1050282812634232704 
  • 山本孟「<論説>帝国時代におけるヒッタイトの支配体制 : 副王制・属国支配・外交」『史林』第96巻第4号、史学研究会、2013年7月31日、491-524頁、doi:10.14989/shirin_96_491 
  • 山本孟「ハットゥッシリ3世の弁明』における「愛」―「愛」を意味するヒッタイト語の表現について―」『一神教世界』第11巻、同志社大学一神教学際研究センター、2020年3月31日、1-15頁、doi:10.14988/pa.2020.0000000098ISSN 21850380CRID 1390290699893055232