エストレ=ドニエクール
Estrées-Deniécourt | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | オー=ド=フランス地域圏 |
県 (département) | ソンム県 |
郡 (arrondissement) | ペロンヌ郡 |
小郡 (canton) | アン小郡 |
INSEEコード | 80288 |
郵便番号 | 80200 |
市長(任期) |
ジェラール・ギレモン (2014年[1]-2020年) |
自治体間連合 (fr) | CC Terre de Picardie |
人口動態 | |
人口 |
332人 (2015年) |
人口密度 | 51人/km2 |
地理 | |
座標 | 北緯49度52分30秒 東経2度49分22秒 / 北緯49.875024度 東経2.822786度座標: 北緯49度52分30秒 東経2度49分22秒 / 北緯49.875024度 東経2.822786度 |
標高 |
平均:m 最低:69 m 最高:85 m |
面積 | 6.45km2 |
エストレ=ドニエクール (Estrées-Deniécourt)は、フランス、オー=ド=フランス地域圏、ソンム県のコミューン。
地理
[編集]コミューンは、アミアンの東、サンテール地方にある。アミアンとサン=カンタンを結ぶ道路の途中、ペロンヌの南西にある。TGVオート・ピカルディ駅は、隣接するコミューンのアブランクール=プレソワールとエストレ=ドニエクールとにまたがって建設された。
コミューンの土壌は珪質粘土であり、北東部は石が多い[2]。
コミューンの住宅地は、中心地のあるエストレ村落と、ドニエクール集落とで構成される。第一次世界大戦中に完全に破壊されたため、村は戦間期に再建された。1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻で戦いが起きた場所であり、一部が破壊されたエストレは1945年以降に再建された。
由来
[編集]Estréeは古フランス語の言葉で、『平らな石で覆われた道』を意味する、ラテン語のstrataからきている。『道路』を意味するruptaとは対照的である。これはほとんどのロマンス諸語で保存されており(イタリア語およびルーマニア語ではstrada)、ゲルマン語でも借用されている(英語ではstreet、ドイツ語でStraße、オランダ語でstraat)[3]。estréeという言葉は中世後期にフランス語から消滅したが、特にフランス北部の、ローマ街道が近いことを知らせる、数多くの地名の中に残っている[4]。エストレ=ドニエクールの場合のローマ街道は、ガリア・ベルギカに通じたブリュヌオー道である。
19世紀の歴史家ポール・ドゥカニー司祭は、stradaという名前の意味として、『踏みつぶされた場所』をあげている[5]。また、1146年にはStardaまたはStangtersの名前が見つけられ、ギヨーム・ドリールの地図においてはエストレがMailleuまたはMallieux、Maillouとして記されている。
古文書においてDeniécourtを示すいくつかの形式がある。1010年にDigniscourt、1110年にDignicurtと記された。1265年には、ドニエクールがSancti Dionisii curiaとして登場する。これは聖ドニの名を頂く古い教会があったことを示す。
歴史
[編集]TGVパリ-リール線建設中に行われた考古学的発掘は、異なる時代の遺跡があることを明らかにした。
考古学的発掘調査では、おそらく紀元前2世紀からのラ・テーヌ文化期の農村居住地跡が発見された。そこには約20人が埋葬された墓地も含まれていた[6]。
考古学的発掘調査では、ローマ占領時代のガリアの農場跡が見つかった(1世紀から4世紀)[6]。
コミューンにはサマロブリヴァ(現在のアミアン)からアウグスタ・ヴィロマンドゥオルム(現在のサン=カンタン)までの、非常にまっすぐな古いローマ街道があった。
カトリックの伝説によると、3世紀後半、聖カンタンはアミアンからヴェルマンへの途上、エストレを通過した。
エストレ領は、中世にはネール城代区に属していた。ソワソン伯イヴ・ド・ネールは、自らが第2回十字軍へ出発する前に、サン・クレパン修道院長エルノーに、ペロンヌ近郊のエストレの祭壇を与えた[5]。
1221年の憲章では、エストレ領主としてピエール・デストレの名が記されている。彼は1214年のブーヴィーヌの戦いで軍旗を掲げた[5]。
1270年、ラウール・デストレの名が第8回十字軍に参加している騎士として引用されている[5]。
1521年、ジャン1世・デストレ(fr)は、カトリーヌ・ド・ブルボン=リニーと結婚した。彼らの孫娘が、アンリ4世の愛妾ガブリエル・デストレである。
三十年戦争中の17世紀、エストレはスペイン兵に略奪された[2]。フランス革命中にエストレとドニエクールが合併し、エストレ=ドニエクールとなった。1870年の普仏戦争では、住民の一部が武装し、数人のプロイセン人を殺害した[2]。
人口統計
[編集]2015年時点のコミューン人口は332人であり、2010年の人口と比較すると3.43%増加している。
1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2015年 |
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272 | 255 | 285 | 253 | 252 | 245 | 275 | 332 |
参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[7]、2006年以降INSEE[8][9]
参照
[編集]- ^ "Liste des maires de la Somme". Liste des élus du département de la Somme. Préfecture de la Somme. 6 May 2014. 2014年6月28日時点のオリジナル (xls)よりアーカイブ。2014年6月9日閲覧。
- ^ a b c Notice géographique et historique sur la commune d'Estrées-Deniécourt, rédigée par M. Leroy, instituteur, 189?, Archives départementales de la Somme
- ^ John Ayto, Dictionary of Word Origins, Arcade Publishing, New York, 1990, 584 pages, pg 506
- ^ Stéphane Gendron, La Toponymie des voies romaines et médiévales, éditions errance, Paris, 2006, 200 pages, pg 32
- ^ a b c d Abbé Paul Decagny, Chaulnes et ses environs, 1865, reprise Paris, 1992, Le Livre d'histoire, Res Universis, Rassorts Lorisse ISBN 2-87760-916-2
- ^ a b Henri de Saint-Blanquat, Archéo-TGV, 450 km d'histoire, Paris, Casterman, 1992 ISBN 2-203-23303-6
- ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=13161
- ^ https://www.insee.fr/fr/statistiques/3293086?geo=COM-80288
- ^ http://www.insee.fr
文献
[編集]- Abbé Paul Decagny, Chaulnes et ses environs, 1865, reprise Paris, 1992, Le Livre d'histoire, Res Universis, Rassorts Lorisse ISBN 2-87760-916-2 (Monographie)
- Francine François-Dejuine, 1914-1924, 26 communes dans la tourmente, Inval-Boiron, 2007, La Vague verte, collection Souvenance ISBN 978-2-913924-99-4.
- Francine François-Dejuine, 1935-1955, Mémoires de 28 communes du Santerre, Inval-Boiron, 2011, La Vague verte, collection Souvenance ISBN 978-2-35637-035-8.