エッケハルト1世 (マイセン辺境伯)
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エッケハルト1世 Ekkehard I. | |
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マイセン辺境伯 テューリンゲン辺境伯 | |
エッケハルト1世の統治下で作られた貨幣 | |
在位 |
マイセン辺境伯:985年 - 1002年 テューリンゲン辺境伯:1000年 - 1002年 |
出生 |
960年頃 |
死去 |
1002年4月30日 ペールデ |
配偶者 | シュヴァンヒルト・フォン・ザクセン |
子女 | 一覧参照 |
家名 | エッケハルディン家 |
父親 | メルゼブルク辺境伯・マイセン辺境伯ギュンター |
母親 | ドゥブラフカ・フォン・ベーメン |
エッケハルト1世(Ekkehard I., 960年頃 - 1002年4月30日)は、エッケハルディン家出身のマイセン辺境伯(在位:985年 - 1002年)、テューリンゲン辺境伯(在位:1000年 - 1002年)。メルゼブルク辺境伯・マイセン辺境伯ギュンターとボヘミア公ボレスラフ1世の娘ドゥブラフカとの息子。ヘルマン・ビルングの娘シュヴァンヒルトと結婚した。
生涯
[編集]ボヘミア公ボレスラフ2世が城の占拠を解いた後の987年、あるいはその少し後に神聖ローマ皇帝オットー3世からマイセン辺境伯に任命された。990年にポーランドとボヘミアとの間の和平交渉に出かけ、リューティチ族の捕虜となってしまったが、ボレスラフ2世の調停により釈放されている。
その数年後にエッケハルト1世は異父弟のポーランド王ボレスワフ1世と同盟を結び、テューリンゲン辺境伯に叙され、さらには1002年のオットー3世の死後王位を得ようと働きかけたが、同年に反対派によってペールデの城館で殺害された。マイセンは弟のグンツェリンが、テューリンゲンはヴァイマール伯ヴィルヘルム2世が継承した。
子女
[編集]- リュートガルト(1012年没) - ヴァルデック伯ならびにノルトマルク辺境伯ヴェルナー(1014年没)と結婚。
- ヘルマン1世(1038年没) - バウツェン伯、マイセン辺境伯、ハッセガウ兼ガウ・チュティツィ伯。
- エッケハルト2世(1046年没) - ガウ・チュティツィおよびブルクヴァルト・トイヒェルン伯、オストマルク辺境伯、マイセン辺境伯。
- ギュンター(1025年没) - 1001年に王室の宮廷つき司祭、1009年に王室尚書、1024年から1025年までザルツブルク大司教。
- アイルヴァルト(1023年没) - 王室宮廷つき司祭、1016年から1023年までマイセン司教
- マティルデ - アイレンブルク伯、ハッセガウ伯兼オストマルク辺境伯ディートリヒ1世と結婚。
- オーダ(1025年没) - ポーランド王ボレスワフ1世と結婚。
文献
[編集](ドイツ語版の参考文献として挙げられているものであり、日本語版の作成に直接参照はしておりません)
- Eberhard Holz / Wolfgang Huschner (Hrsg.): Deutsche Fürsten des Mittelalters. Edition Leipzig, Leipzig 1995, ISBN 3361004373
外部リンク
[編集](ドイツ語版の外部リンクとして挙げられているものであり、日本語版の作成に直接参照はしておりません)
- ADB
- genealogie-mittelalter.de
- "Ein Jahrtausend Rudelsburg mit Rittergut Kreipitzsch und ihre Besitzer" Eine historische Video-Dokumentation
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