エトナ級軽巡洋艦
エトナ級軽巡洋艦 | |
---|---|
艦級概観 | |
艦種 | 軽巡洋艦 |
艦名 | 火山名 |
前級 | ルイジ・ディ・サヴォイア・デュカ・デグリ・アブルッチ級軽巡洋艦 |
次級 | カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦 |
性能諸元((内はタクシン時代のもの) | |
排水量 | 基準:5,990トン (基準:4,300トン、常備:5,500トン) |
全長 | 153.8m、141m(水線長) |
全幅 | 14.47m |
吃水 | 常備:5.95m(5.25m) |
機関 | 形式不明重油専焼水管缶3基+形式不明ギヤードタービン2基2軸推進 |
最大出力 | 40,000hp(45,000hp) |
最大速力 | 28ノット(30ノット) |
航続距離 | 不明 |
乗員 | 580名 |
兵装 | 1938年型13.5cm(45口径)連装両用砲3基 1939年型6.5cm(54口径)単装高角砲10基 1929年型20mm(65口径)機銃連装6基 (1936年型15.2cm(55口径)連装砲3基、1909年型 7.6cm(50口径)単装高角砲6基、13.2mm単装機銃8基、53.3cm水上魚雷発射管3連装2基) |
装甲 | (舷側:60mm(水線部) 甲板:20~35mm(30mm) |
搭載機 | (水上機1機、カタパルト1基) |
エトナ級軽巡洋艦 (Incrociatore leggero classe Etna) とは、イタリアが第二次世界大戦当時に建造した軽巡洋艦である。もともとはタイが第二次世界大戦勃発前に、イタリア王国に発注した2隻の巡洋艦であった[1]。「タクシン級」(ナレスアン[2]、タクシン[3])として建造中の1940年6月にイタリアが世界大戦に参戦。その後、イタリア海軍が買収する。艦形が小型過ぎて既存の軽巡洋艦として使うのには向かないため、途中で防空軽巡洋艦として改設計をおこなった。だがイタリアの降伏までに竣工せず、世界大戦終結後に未完成のまま解体された。なお、本級の艦名はエトナ火山とヴェスヴィオ火山に因む。
概要
[編集]1930年代のタイは[4]、海軍力の増強に乗り出した[5]。だが自国で軍艦を調達できず、諸外国から輸入する方法でタイ海軍の戦力を整備する[6][7]。第一期計画では日本から納入された艦艇が多かったが[8][9][注釈 1]、第二期計画ではイタリアに巡洋艦を発注した[10][注釈 2]。
タイとフランスは領土問題を抱えていた[11]。 本級はタイ海軍がインドシナに駐留するフランス海軍の東洋艦隊に対抗すべく計画したものである[注釈 3]。トンブリ級海防戦艦を建造した日本の川崎造船所も入札を検討したが[14]、最終的にイタリア政府に発注された。その主要目は、排水量約4,800トン、速力30ノット程度、主砲に15.2センチ砲6門装備というものだった[注釈 4]。
1939年にトリエステのカンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ(C.R.D.A.)に発注され[注釈 2]、「タクシン」は1939年9月23日に、「ナレスアン」は1939年8月26日に起工した。しかし建造中の1939年9月1日にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した[注釈 5]。さらに1940年6月10日にイタリアが枢軸国として第二次世界大戦に参戦した。1941年8月6日にタクシンが進水、遅れて1年後の1942年5月28日にナレスアンが進水した。2隻とも1943年に竣工予定だった[17]。
しかし、この頃のイタリアは大戦の影響により工事は遅滞しがちで、何より自国海軍の艦艇を維持するのに精一杯であった。そのため、イタリア海軍は本級2隻をタイ政府より買収し、自国海軍向けに建造を再開した。艦名は自国の火山名が名付けられ、タクシンは「エトナ」、ナレスアンは「ヴェスヴィオ」と号せられた。
しかし、イタリア海軍の既存軽巡洋艦に比べて艦形も小型で何より武装にも速力にも劣る本級はそのままでは使い勝手が悪いため、当時不足がちだった船団護衛用任務に特化した軽巡洋艦として改設計を行ったのである。連合軍機から船団を守るために主砲は対空・対艦双方に使用できる両用砲とし、更に本艦も輸送艦として使えるように船体後部は兵員や物資を運べるようフラットな形状に作り変えた。設計状態では防空巡洋艦(防空艦)として生まれ変わったのである
外観
[編集]本級の船体形状はクリッパー型艦首から弱いシアを持つ駆逐艦型の短船首楼型船体であった。艦首甲板から見てみると、新設計の「1938年型13.5cm(45口径)両用砲」を連装砲塔に納め1基、円柱型の測距儀を載せた箱型艦橋の背後に軽量なポール・マストが立ち、艦橋に食い込むように斜めに立つ一本煙突の左右に対空射撃式装置が1基ずつ配置され、船体中央部の舷側に6.5cm単装高角砲が直列に片舷5基の計10基が配置されている。
煙突の後部から艦尾甲板までは階段状になっており各段ごとに20mm連装機銃が1基ずつ配置され、空いた箇所に艦載艇が置かれた、後部甲板上には後ろ向きに連装主砲塔2基が背負い式で配置され、そこから艦尾までは完全にフラットとなっている。
主砲
[編集]主砲は「カイオ・ドゥイリオ級戦艦」の副砲や「カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦」の主砲として装備された「1938年型13.5cm(45口径)砲」を採用した。重量32.7 kgの砲弾を仰角45度で19,600 mまで届かせることが出来る。この砲を本級では連装砲塔に収めた。更に、それまでは最大仰角45度だったものを両用砲化して搭載する予定であった。両用砲となった本砲の俯仰能力は仰角85度、俯角7度である。旋回角度は船体首尾線方向を0度として砲塔が左右120度の旋回角度を持つ、主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分6発である。
本砲は世界大戦終結後になって完成し、1954年に「ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ級軽巡洋艦」「ジュゼッペ・ガリバルディ」が換装して装備した[18]。
その他の備砲・水雷兵装
[編集]高角砲は設計当初は7.6cm砲であったが、改設計時に新設計の「1939年型6.5cm(54口径)高角砲」を採用した。この砲は4.08kgの砲弾を仰角45度で7,500m、最大仰角80度で5,000mの高度まで到達させることができた。
旋回と俯仰は主に電力で行われ、左右方向に120度旋回でき、俯仰は仰角80度、俯角10度で、発射速度は毎分20発だった。
他にはブレダ社製「1929年型20mm(65口径)機銃」を連装砲架で6基12門を艦橋の両脇に1基ずつ、煙突の左右に1基ずつ、後方に背負い式に2基配置した。
機関
[編集]機関配置はイタリア近代巡洋艦伝統の缶室分離配置方式である。ボイラー缶3基を艦橋の直下に2基、タービン機関1基を挟んで後方に1基を配置、その後ろにタービン機関1基を配置した。設計段階では最大出力45,000hp、速力30ノットであったが、信頼性を考えて出力を抑えて最大出力40,000hp、速力28ノットとされた。
艦歴
[編集]購入後、悪化し続ける戦況は本級を完成へと導かず、イタリア敗戦時には2隻とも進捗率6割で1943年9月10日にドイツ陸軍に接収され、後にトリエステ湾の閉塞船として自沈処分にされた。
第二次世界大戦終結後の1949年に浮揚され解体処分となった。
同型艦
[編集]- 「エトナ(Etna)」(旧タイ海軍「タクシン(Taksin)」)
- 「ヴェスヴィオ(Vesuvio)」(旧タイ海軍「ナレスアン(Naresuan)」)
出典
[編集]注
[編集]- ^ メクロン級スループ、マッチャーヌ級潜水艦、トンブリ級海防戦艦など。
- ^ a b タイは1934年計画と1935年計画でイタリアのC.R.D.A.にトラッド級水雷艇を合計9隻発注し、全隻納入されている。
- ^ 当時は、オランダ領東インドのオランダ海軍も海軍力を増強していた[12][13]。
- ^ 新艦の要目[15] 目下イタリートリエスト造船所に於て建造中なるタイ國政府注文の巡洋艦二隻の主要目は次の如く發表された。即ち排水量四,八〇〇噸速力三〇節以内、兵装一五二粍砲六門、尚別表に依るとタイ海軍は新艦就役に伴ひ舊式艦艇を數隻除籍したとの由である。(四月二十七日)
- ^ 海軍伊太利に戰艦注文[16] タイ字紙記者がブライユンバーモントリ大佐との會見の後報ずるところによれば、先年タイ國海軍は伊太利に二隻の巡洋艦を注文したが、目下同國に於て建造中のところ、歐洲大戰の勃發におり延期される模様であると言はれてゐる。(四.一〇-B・C)
脚注
[編集]- ^ 太平洋二千六百年史 1941, p. 421(原本738-739頁)
- ^ 三井、1939年タイ国政治経済情勢 1940, p. 31(原本39頁)第二次建艦計畫に着手
- ^ 三井、1939年タイ国政治経済情勢 1940, pp. 39–40(原本55-56頁)新艦命名
- ^ 「「週報 第33号」、週報(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A06031019500 pp.15-18〔 暹羅國の現状 外務省情報部 〕
- ^ “海南島攻略と列國の南洋再軍備(二)大島重雄”. Manshū Nichinichi Shinbun, 1939.04.23 Edition 02. pp. 03. 2024年10月10日閲覧。
- ^ 南洋年鑑 第3回版 1937, p. 311(原本591頁)三 海軍
- ^ “新興暹羅海軍 來月初の大演習 年内に更に廿數隻發註”. Singapōru Nippō, 1938.09.29. pp. 02. 2024年10月10日閲覧。
- ^ 現代シャムと日シャム関係 1938, pp. 16–17一.海軍 1 日本への軍艦注文
- ^ タイ国概観 1940, p. 134(原本225頁)
- ^ タイ国概観 1940, pp. 44–47(原本44-47頁)第四節 軍事概觀
- ^ 現代シャムと日シャム関係 1938, pp. 22–23二.シャム人の敵愾心
- ^ “蘭印艦隊の強化 大型巡洋艦を配備”. Singapōru Nippō, 1938.06.16. pp. 02. 2024年10月10日閲覧。
- ^ 三井、1939年タイ国政治経済情勢 1940, p. 34(原本44-45頁)タイ海軍を氣にする蘭印
- ^ 「「機密川暹第102号 12.1.29 暹羅国巡洋艦受註に関する件」、公文備考 昭和12年 D 外事 巻7(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C05110696400
- ^ 三井、1939年タイ国政治経済情勢 1940, p. 29(原本34頁)
- ^ 1941年タイ国政治経済情勢 1942, p. 58原本90頁
- ^ 南洋年鑑 第4回版上巻 1943, p. 312(原本594-595頁)第三節 海軍
- ^ イタリア巡洋艦史 (海人社)p148~151
参考文献
[編集]ウィキメディア・コモンズには、エトナ級軽巡洋艦に関するカテゴリがあります。
- 「世界の艦船増刊 イタリア巡洋艦史」(海人社)
- 「世界の艦船増刊 第2次大戦時のイタリア軍艦」(海人社)
- アジア歴史資料センター(公式)
- 『「77.現代シャムと日シャム関係ー(インド・英国の反日的策動・其他)ー」、本邦対内啓発関係雑件/講演関係/日本外交協会講演集 第六巻(A.3.3.0.2-1-2_006)(外務省外交史料館)』1938年8月。Ref.B02030923000。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 財團法人海軍有終會編「第三章 泰國(舊暹羅)」『太平洋二千六百年史』三井タイ室、1941年11月。doi:10.11501/1270125 。
- 臺灣総督官房外事課「暹羅」『南洋年鑑 第3回版』南洋協會臺灣支部、1937年11月。doi:10.11501/1859710 。
- 臺灣総督府外事部「泰國/第十章 國防」『南洋年鑑 第4回版上巻』一九四一年タイ国政治経済情勢、1943年9月。doi:10.11501/1142316 。
- タイ室東京事務局 訳編「軍事」『一九四一年タイ國政治經濟情勢』タイ室東京事務局、1942年12月。doi:10.11501/1879315 。
- タイ室東京事務局 訳編「國防」『一九四二年タイ國政治經濟情勢』タイ室東京事務局、1943年10月。doi:10.11501/1277160 。
- 日本タイ協会「第四章 政治の大要」『タイ國概觀』日本タイ協会、1940年12月。doi:10.11501/1877964 。
- 三井タイ室調査部『一九三九年タイ國政治經濟情勢』三井タイ室、1940年3月。doi:10.11501/1268199 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Cruiser light 'Etna' (1939)[リンク切れ]「エトナ」の完成予想図とスペックがあるページ。(英語)
- Incrociatore antiaereo Etna[リンク切れ]「エトナ」の完成予想図とスペックがあるページ。(イタリア語)
- 日本タイ協会