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エドワード・ディグビー (第2代ディグビー伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第2代ディグビー伯爵エドワード・ディグビー英語: Edward Digby, 2nd Earl Digby1773年1月6日1856年5月12日)は、アイルランド貴族。1790年から1793年までコーゾル子爵儀礼称号を使用した[1]

生涯

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初代ディグビー伯爵ヘンリー・ディグビーと2人目の妻メアリー(Mary、旧姓ノウラー(Knowler)、1794年2月26日没、ジョン・ノウラーの娘[注釈 1])の息子として、1773年1月6日にメイフェアドーヴァー・ストリート英語版で生まれ、セント・ジョージ・ハノーヴァー・スクエア英語版で洗礼を受けた[1]。1790年4月17日、オックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[3]。1793年9月25日に父が死去すると、ディグビー伯爵位を継承した[1]

1808年4月17日から1856年に死去するまでドーセット統監英語版を務めた[4]。1824年5月20日にドーセット民兵隊英語版隊長に任命され[5]、1846年1月に辞任した[6]

政治ではトーリー党に属した[1]

1856年5月12日、生涯未婚のままメイフェアのブルック・ストリート英語版35号で死去、ドーセットシェアボーンで埋葬された[1]。死去時点で90万ポンド近くの財産があったとされる[1]。第2代ディグビー伯爵の死去に伴い、ディグビー伯爵位は廃絶、グレートブリテン貴族アイルランド貴族におけるディグビー男爵位は叔父ウィリアムの孫にあたるエドワード・セント・ヴィンセント・ディグビーが継承した[1]

注釈

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  1. ^ 姓はノウルズ(Knowles)とも[2]

出典

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  1. ^ a b c d e f g Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 355–356.
  2. ^ Drummond, Mary M. (1964). "DIGBY, Henry (1731-93), of Minterne House, Cerne Abbas, Dorset". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年7月25日閲覧
  3. ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (A to D) (英語). Vol. 1. Oxford: University of Oxford. p. 369.
  4. ^ Sainty, John Christopher (1979). List of Lieutenants of Counties of England and Wales 1660–1974 (英語). London: Swift Printers (Sales).
  5. ^ "No. 18034". The London Gazette (英語). 8 June 1824. p. 932.
  6. ^ "No. 20562". The London Gazette (英語). 20 January 1846. p. 209.

外部リンク

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軍職
先代
リチャード・ビンガム
ドーセット民兵隊英語版隊長
1824年 – 1846年
次代
ジョン・ジェームズ・スミス
名誉職
先代
ドーチェスター伯爵英語版
ドーセット統監英語版
1808年 – 1856年
次代
シャフツベリ伯爵
グレートブリテンの爵位
先代
ヘンリー・ディグビー
ディグビー伯爵
1793年 – 1856年
廃絶
ディグビー男爵
1793年 – 1856年
次代
エドワード・ディグビー
アイルランドの爵位
先代
ヘンリー・ディグビー
ディグビー男爵
1793年 – 1856年
次代
エドワード・ディグビー