エフゲーニー・バウエル
Yevgeni Bauer エフゲーニー・バウエル | |
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本名 |
イェフゲーニー・フランツィェヴィチ・バウエル (Евгений Францевич Бауэр) |
別名義 |
エフゲーニー・アンチャロフ (Евгений Анчаров) |
生年月日 | 1865年 |
没年月日 | 1917年6月22日 |
出生地 | ロシア帝国、モスクワ |
死没地 | ロシア共和国、ヤルタ |
国籍 | ロシア帝国 |
民族 | ドイツ系チェコ人 |
職業 | 映画監督、脚本家、舞台美術家 |
ジャンル | 演劇、サイレント映画 |
活動期間 | 1913年 - 1917年 |
活動内容 |
1913年 美術装置家 1913年 監督デビュー |
配偶者 | リーナ・アンチャローヴァ |
著名な家族 | フランツ・バウエル 父 |
エフゲーニー・フランツェヴィチ・バウエル(ロシア語: Евгений Францевич Бауэр, ラテン文字転写: Evgenii Frantsevich Bauer, 1865年 - 1917年6月22日)は、ロシア帝国(現在のロシア)の映画監督、脚本家、舞台美術家である。レフ・クレショフの師として知られるロシア映画黎明期の巨匠である。エフゲーニー・アンチャロフ(Евгений Анчаров)の別名がある。
人物・来歴
[編集]1865年、ロシア帝国(現在のロシア)のモスクワに生まれる。父はチェコ系の音楽家フランツ・バウエル、母はオペラ歌手、姉は女優であった。
1887年、モスクワ美術大学を卒業、新聞に風刺画を描く仕事を得た。写真美術家として名を成した後に、演劇界に入り、演劇プロデューサー、舞台美術家となった。1890年代に女優・舞踊家のリーナ・アンチャローヴァと結婚、第一次世界大戦中は「アンチャローヴァ」の男性姓を用いて「エフゲーニー・アンチャロフ」と名乗った。戦時に「バウエル」は「あまりにゲルマン的」な名であったからだ。
1913年、48歳になるころ、アレクサンドル・ドランコフの映画会社が製作した44分のサイレント映画『ロマノフ家の三百年』に美術装置家として参加することで、映画界に入った。同年、ピョートル・チャルディニンとの共同監督作『伯父のアパート』 で、初めて映画を監督した。
1917年、アレクサンドル・ハンジョンコフとともに、ロシア帝国(現在のウクライナ)内のクリミア半島のヤルタの新しい撮影所に移り、若い俳優のレフ・クレショフとともに『幸福を求めて』の撮影を開始した。バウエルは撮影現場で脚を骨折し、次作の『パリの王者』は座ったまま演出せざるを得なくなった。
バウエルは肺炎を患い、その合併症で、二月革命後、ロシア臨時政府成立前の1917年6月22日、同地のヤルタ病院で死去した。満51-52歳没。遺作となった『パリの王者』は、女優のオルガ・ラフマノヴァが完成させた。
おもなフィルモグラフィ
[編集]- 『ロマノフ家の三百年』 Трёхсотлетие дома Романовых : 1913年 - 美術装置
- 『伯父のアパート』 Дядюшкина квартира : 共同監督ピョートル・チャルディニン、1913年 - 監督
- 『死の中の生』 Жизнь в смерти : 1914年 - 監督
- 『死後』 После смерти : 1915年 - 監督
- 『人生のための人生』 Жизнь за жизнь : 1916年
- 『瀕死の白鳥』 Умирающий лебедь : 1917年 - 監督
- 『革命家』 Революционер : 1917年 - 監督
- 『警鐘』 Набат : 1917年 - 監督
- 『幸福を求めて』 За счастьем : 1917年 - 監督
- 『パリの王者』 Король Парижа : 共同監督オルガ・ラフマノヴァ、1917年 - 監督
関連事項
[編集]- モスクワ美術大学(Moscow School of Painting, Sculpture and Architecture)
- ピョートル・チャルディニン (en:Pyotr Chardynin)
- アレクサンドル・ハンジョンコフ (en:Aleksandr Khanzhonkov)