エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ (軽巡洋艦)
エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ | |
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基本情報 | |
運用者 | イタリア王立海軍 |
艦種 | 嚮導巡洋艦 (軽巡洋艦) |
級名 | エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ型 |
艦歴 | |
起工 | 1932年10月29日 |
進水 | 1934年4月22日 |
就役 | 1935年7月13日 |
最期 | 1949年3月、 戦争賠償としてソ連に譲渡 |
その後 | 1960年代に解体 |
要目 | |
基準排水量 | 8,450トン |
満載排水量 | 10,539トン |
全長 | 186.9 m m |
最大幅 | 17.5 m |
吃水 | 6.1 m |
ボイラー | ヤーロー式重油専焼水管缶6基 |
主機 | パーソンズ式(サヴォイアはベルッツォ式)ギヤード・タービン2基2軸推進 |
推進 | 2軸 |
出力 | 計画 110,000 hp |
速力 | 36.5 ノット |
航続距離 | 3,900 海里 / 14ノット |
乗員 | 578名 |
兵装 |
Models 1929 15.2cm(53口径)連装砲4基 Models 1924 10cm(47口径)連装高角砲3基 Models 1932 3.7cm(54口径)連装機関砲4基 Model 1931 13.2mm(75.7口径)連装機銃6基 53.3cm三連装魚雷発射管2基 |
装甲 |
舷側:70~105mm(水線部) 甲板:35mm 主砲塔:90mm(前盾) 主砲バーベット:100mm 司令塔:100mm |
搭載機 | 水上偵察機2機、カタパルト1基搭載 |
エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ (イタリア語: Emanuele Filiberto Duca d'Aosta) は、イタリア王立海軍が第二次世界大戦で運用したエマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ級軽巡洋艦[1]。イタリア降伏後、賠償艦に指定される[2]。ソビエト連邦が取得し、黒海で運用される[3]。当初はスターリングラード (Сталинград) 、次にケルチ (Керчь) に改名され、1960年代まで使用された[4]。
概要
[編集]エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタは、コンドッティエリ軽巡洋艦の4番目のサブクラスに属していた。エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタのデザインは、ライモンド・モンテクッコリ級軽巡洋艦の改良版で、排水量がわずかに増加し、装甲が大幅に増加していた。 内部機器も再配置されていた。
エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタはリボルノのOTO社によって建造され、第一次世界大戦時のイタリアの陸軍元帥アオスタ2世公爵エマヌエーレ・フィリベルトにちなんで名付けられた。
艦歴
[編集]1937年6月初旬、ドイツ国防軍のヴェルナー・フォン・ブロンベルク陸軍元帥がイタリア王国を訪問した[5]。6月7日、イタリア海軍はガエータ湾で観艦式を実施する[6]。ダオスタ号はムッソリーニ首相の旗艦となり、内閣閣僚やプロンベルグ将軍も乗艦した[注釈 1]。 第7巡洋艦部隊に加わり、1938年には同戦隊司令官ソミグーリ提督の指揮下で姉妹艦「エウジェニオ・ディ・サヴォイア (Eugenio di Savoia) 」と世界周航航海をおこない[8]、その際に日本を訪問する予定であった[注釈 2]。だがナチス・ドイツとチェコスロバキアの間でズデーテン危機が勃発して8月31日のナポリ出発は延期される[10]。11月にナポリを出発、カリブ海、南アメリカを訪れた[11]。イタリア領事館の公式発表をもとにハワイ経由で日本訪問との報道もあったが[12][13]、実現せず1939年3月にラスペツィアに帰還した。
第二次世界大戦
[編集]1940年6月にイタリア王国が枢軸陣営として世界大戦に参加した。ダオスタは引き続き第7巡洋艦隊に所属しており、7月6〜10日のプンタ・ステロ沖海戦に参加した。さらに、ダオスタは北アフリカへの輸送船団の護衛や、イギリスの巡洋艦への迎撃に参加し、12月18日にはコルフ島への砲撃に参加した。
1941年の間、ダオスタは主に第8巡洋艦師団に所属し、北アフリカの沖への機雷敷設や護送船団の護衛に参加した。
1941年5月1日と6月3日に他の巡洋艦と共にトリポリ沖へ機雷を敷設[14]。同年12月19日にイギリス海軍のK部隊がこの機雷原に突入し、軽巡洋艦ネプチューン (HMS Neptune, 20) と駆逐艦カンダハー (HMS Kandahar, F28) が沈没、軽巡2隻(オーロラ、ペネロピ)が大破するなどの被害を出している[15][16]。なお、6月3日の時は「エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ」は対潜水艦用の機雷を敷設している[17]。
12月に行われた船団護衛任務は、 ダオスタが参加した第一次シルテ湾海戦に発展した。
1942年の任務は以前とほぼ同じだったが、8月にペデスタル作戦による輸送船団を迎撃するために出航したが、空軍の援護がないため、この出撃は中止された。
1942年6月13日、 ダオスタはサルデーニャ島の南方沖において軽巡洋艦ライモンド・モンテクッコリ (Raimondo Montecuccoli) とともに航行中にイギリス潜水艦ユニゾン (HMS Unison) よる雷撃を受けたが難を逃れた[18]。
1943年、 ダオスタは1年の残りのほとんどの期間、燃料不足のために活動していなかった。8月に予定されたパレルモ周辺の連合国軍への砲撃は中止された。
イタリアの降伏と休戦協定締結後、ダオスタはタラントで簡単な改修を行い、1943年10月に軽巡洋艦ドゥーカデッリアブルッツィとジュゼッペガリバルディとともに、南大西洋に出航し、西アフリカのフリータウンに拠点を置く海上封鎖任務に他の連合国軍と共に貢献した。1943年11月から1944年2月の間に7回の巡回を行った。ダオスタは4月にイタリアに戻り、その後、輸送任務を行っただけだった。
ダオスタは参加した海上行動のいずれにおいても損害を受けたことはなく、空襲や潜水艦の攻撃によって被弾を受けることはなかったため幸運艦と呼ばれていた。
戦後
[編集]第二次世界大戦終結後、 ダオスタは活動停止状態となり、戦時賠償の一環としてソビエト連邦に引き渡された[4]。1949年3月2日、Z15としてソ連海軍の艦艇となる。彼女は最初にスターリングラード、次にケルチに改名した[4][注釈 3]。1959年2月20日に除籍されて[19]1960年代(おそらく1960年)に解体されるまで、ソビエト海軍の黒海艦隊に所属していた。
出典
[編集]注釈
[編集]- ^ ローマ【六・七】[7] イタリア海軍はドイツ國防相プロンベルグ將軍の来訪を機會に七日ガエダ灣沖合にて艨艟百二十隻参加の下に空前の大觀艦式を擧行した、ムツソリーニ首相はブロンベルグ將軍を始め外相チアノ伯、アルフイエーリ宣傳相等を帶同して旗艦デユカ・ダナスタ號に搭乘、イタリア海軍の精鋭を巡閲した(記事おわり)
- ^ ムソリニ伊首相は海相としてかねて日伊海軍交歡の具體化を考慮中であつたが二十三日イタリー海軍中の新鋭巡洋艦二隻を極東の友邦に派遣する事に決定した、特派巡洋艦は第七戰隊に屬するサヴオイア號及びデュカ、ダオスタ號の二隻で第七戰隊司令官ソミリ中將自ら司令官として來る八月三十一日ナポリ出發、南米經由明年一月二十二日横濱到着、その後長崎、仁川、大連等を歴訪し日伊親善の實を擧げんとするものである[9](記事おわり)
- ^ 先代はロシア革命時代の駆逐艦ケルチである。
脚注
[編集]- ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 121イタリア/軽巡洋艦「エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ」級 EMANUELE FILIBERTO DUCA D'AOSTA CLASS
- ^ イタリア平和条約 1947, pp. 200–201ろ ソヴイエト連邦、連合王國、合衆國及びフランス國の政府の自由処分に委される海軍艦船の表
- ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 142a〔戦利・貸供与艦〕ソ連/軽巡洋艦「スターリングラード」STALINGRAD
- ^ a b c 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 142b.
- ^ “獨伊協定成立か 獨陸相の訪伊注目さる”. Singapōru Nippō, 1937.06.08. pp. 02. 2024年9月7日閲覧。
- ^ “軍縮會議招集されずば更に海軍を擴大強化せん ムツソリニ首相は聲明”. Nichibei Shinbun, 1937.06.08. pp. 01. 2024年9月7日閲覧。
- ^ 同盟旬報(通号001号) 1937, p. 56ドイツ
- ^ “日本へ"親善艦隊" ★……イタリー派遣と決定”. Burajiru Jihō, 1938.09.18. pp. 03. 2024年9月7日閲覧。
- ^ “伊國新鋭艦明春來訪 日伊海軍の交歡”. Kawai Shinpō, 1938.07.19. pp. 01. 2024年9月7日閲覧。
- ^ “伊太利の訪日兩艦 突如出發を延期 歐洲政情の緊迫化に對處”. Manshū Nichinichi Shinbun, 1938.09.02. pp. 02. 2024年9月7日閲覧。
- ^ “日本訪問の途中 來伯した伊國軍艦 レセプションに坂根總領事欣然出席”. Nippaku Shinbun, 1938.12.14. pp. 07. 2024年9月7日閲覧。
- ^ “伊太利の兩新鋭艦 三月當地に寄港 防共盟邦日本訪問の途次 ソミグリ提督が坐乘”. Nippu Jiji, 1939.01.10. pp. 03. 2024年9月7日閲覧。
- ^ “日本親善訪問の 伊太利兩巡洋艦 三月下旬ホノルルに寄港”. Nippu Jiji, 1939.02.03. pp. 06. 2024年9月7日閲覧。
- ^ "The Demise of Force "K"", pp. 99-100
- ^ "The Demise of Force "K"", pp. 104-109
- ^ "The Demise of Force "K"", pp. 100, 104-109
- ^ "The Demise of Force "K"", pp. 110
- ^ Chalcraft, Geoff (2000–2008). "Unison". British Submarines of World War II.
- ^ Rohwer, Jürgen; Mikhail S. Monakov. Stalin's Ocean-going Fleet: Soviet Naval Strategy and Shipbuilding. Routledge. p. 268.
参考文献
[編集]- 編集人 木津徹、発行人 石渡長門『世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史』株式会社海人社〈2010年1月号増刊(通算第718号)〉、2009年12月。
- Joseph Caruana , "The Demise of Force "K"", Warship International, Vol. 43, No. 1, International Naval Research Organization, 2006, pp. 99-111
- Brescia, Maurizio (2012). Mussolini's Navy: A Reference Guide to the Regina Marina 1930–45. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 978-1-59114-544-8
- Conway's All The World's Fighting Ships 1922–1946. London: Conway Maritime Press. (1980). ISBN 0-85177-146-7
- Fraccaroli, Aldo (1968). Italian Warships of World War II. Shepperton, UK: Ian Allan. ISBN 0-7110-0002-6
- Whitley, M. J.『Cruisers of World War Two: An International Encyclopedia』Naval Institute Press、Annapolis, Maryland、1995年。ISBN 1-55750-141-6。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 外務省条約局 訳編『イタリア平和條約』外務省条約局、1947年6月 。
- アジア歴史資料センター(公式)
- 『同盟旬報第1巻第01号(通号001号)(同盟通信社)』1937年7月。Ref.M23070000200。