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エミリー・セシル (ソールズベリー侯爵夫人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョシュア・レノルズによる肖像画、1780年。

ソールズベリー侯爵夫人メアリー・アミーリア・セシル英語: Mary Amelia Cecil, Marchioness of Salisbury、旧姓ヒルHill)、1750年8月16日1835年11月27日)は、イギリスの侯爵夫人。ファーストネームは一般的には「エミリー・メアリー」(Emily Mary)と呼ばれることが多い[1]ノース内閣の閣僚の娘であり、社交界で縁故を拡げて小ピットを後援し、夫を侯爵に昇叙させたことで知られる[2]。私生活ではスポーツ、特に乗馬と狩猟が好きであり、70代まで続けた[1]。1835年、自宅の火災で死亡した[3]

生涯

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第2代ヒルズバラ子爵ウィルズ・ヒル(のちの初代ダウンシャー侯爵)と1人目の妻マーガレッタ(Margaretta第19代キルデア伯爵ロバート・フィッツジェラルドの娘)の長女として、1750年8月16日にダブリンで生まれた[3]。父は植民地大臣(1768年 – 1772年)、南部担当国務大臣(1779年 – 1782年)を務めた政治家であり[4]、特に南部担当大臣はアメリカ独立戦争期に務めた役職だった[1]。『オックスフォード英国人名事典』はこうした背景から、エミリーが18世紀のイギリス政治を熟知し、社交界を政界での栄達、恩顧関係の確保に利用できたのも驚くべきことではないとした[1]

1773年12月2日、クランボーン子爵ジェームズ・セシル(のちの第7代ソールズベリー伯爵、初代ソールズベリー侯爵)と結婚[3]、1男3女をもうけた[5]

クランボーン子爵も結婚の翌年に庶民院議員に当選して政界入りを果たしており[3]、気転の良さと自信で知られたエミリーは社交界で影響力を発揮して、同じく交際上手だがやや怠惰な夫の地位を高めた[1][3]。こうして、ソールズベリー伯爵家のハットフィールド・ハウスロンドンソールズベリー・ハウス英語版は社交界の中心地となった[2]第1次小ピット内閣(1783年 – 1801年)期にはエミリーがラトランド公爵夫人メアリー・イザベラ英語版ゴードン公爵夫人ジェーン英語版と並ぶ与党側の有力ポリティカル・ホステス(political hostess)になった[1]。『オックスフォード英国人名事典』ではエミリーが社交界での活動に専念できた理由を、結婚13年目まで子女をもうけなかったこととしている[1]

イギリスの首相小ピットはエミリーの貢献を評価して、1783年にエミリーの夫を宮内長官英語版に任命し、1789年に彼を伯爵から侯爵に昇叙させた[3]1784年イギリス総選挙において、デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ・キャヴェンディッシュウェストミンスター選挙区英語版チャールズ・ジェームズ・フォックスを支持して選挙活動をすると、トーリー党内閣は対抗馬としてエミリーをかつぎだした[3]。この総選挙では弟が出馬していたセント・オールバンズ選挙区英語版でも選挙活動を行い、スペンサー伯爵未亡人ジョージアナ・スペンサー英語版(デヴォンシャー公爵夫人の母)が慌ててウェストミンスターで選挙活動をしていた娘のデヴォンシャー公爵夫人とベスバラ伯爵夫人ヘンリエッタ・ポンソンビーを呼び戻した[7]。結局弟は落選したが[7]、ピット派の新聞はエミリーが「尊厳ある優雅な選挙活動をした」と評し、野党側を「暴徒じみた」と評した[1]

私生活ではスポーツ、特に乗馬と狩猟が好きであり、70代まで続けた[1]。同時代の政治家トマス・クリーヴィー英語版はエミリーがセフトン伯爵夫婦を訪れたときの出来事を記録した[1]。すなわち、エミリーがすでに76歳にもかかわらず、1人でフェートン型馬車を操縦してロンドンから20マイル (32 km)も走ったうえ、セフトン伯爵夫婦のところでは毎晩10時から12時まで馬に乗って10マイル (16 km)走り、邸宅に戻った後もホイストトランプゲームの一種)をして1時半ごろにようやく就寝した[1]。78歳のとき、目と体が弱くなって体を馬の鞍に縛り付けないと乗馬できなくなったことで自身が弓を射る狩猟はできなくなったが、そのときでもハーリア犬を使った狩猟であればできると考えた[1]

1835年11月27日、ハットフィールド・ハウスで火事により西棟が焼け落ちるという事件が起こり、エミリーはこの火事で死亡した[3]。12月10日、ハットフィールド英語版で埋葬された[3]。イギリスの歴史学者マイケル・ベントリー英語版は2001年の著書でエミリーの死がその孫ロバート(のちの第3代ソールズベリー侯爵、イギリス首相)の遭遇する身内の不幸のうち、最初のものとなったと評した[8]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l Chalus, E. H. (3 January 2008) [23 September 2004]. "Cecil [née Hill], Mary Amelia [Emily Mary], marchioness of Salisbury". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/68357 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  2. ^ a b 君塚, 直隆 (2023年1月28日). “ソールズベリ侯爵家(上)”. Foresight. 新潮社. 2024年3月13日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1949). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Rickerton to Sisonby) (英語). Vol. 11 (2nd ed.). London: The St Catherine Press. pp. 411–412.
  4. ^ Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 58.
  5. ^ a b c d Lodge, Edmund, ed. (1846). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (15th ed.). London: Saunders and Otley. p. 468.
  6. ^ a b Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth Peter, eds. (1934). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council, and Knightage (英語). Vol. 2 (92nd ed.). London: Burke's Peerage, Ltd. p. 2090.
  7. ^ a b Namier, Sir Lewis (1964). "St. Albans". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年3月13日閲覧
  8. ^ Bentley, Michael (2004) [2001]. Lord Salisbury's World: Conservative Environments in Late-Victorian Britain (英語). Cambridge University Press. p. 10. ISBN 0-511-03751-1