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エリーザベト・フォン・エスターライヒ (1285-1352)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エリーザベト・フォン・エスターライヒ
Elisabeth von Österreich

出生 1285年ごろ
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリア公国ウィーン
死去 1352年5月19日
ロレーヌ公領ナンシー
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
チロル伯領、ヴィンディッシュ英語版ケーニヒスフェルデン修道院英語版
配偶者 ロレーヌ公フェリー4世
子女 ラウル
フェリー
マルグリット
アニェス
ティボー
アルベール
家名 ハプスブルク家
父親 アルブレヒト1世
母親 エリーザベト・フォン・ケルンテン
役職 ロレーヌ公領摂政(1329年 - 1331年)
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エリーザベトと夫ロレーヌ公フェリー4世

エリーザベト・フォン・エスターライヒ(ドイツ語:Elisabeth von Österreich, 1285年ごろ - 1352年5月19日)またはイザベル(Isabelle)は、ロレーヌ公妃および、息子が若年の間ロレーヌ公領の摂政(1329年 - 1331年)をつとめた。

生涯

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エリーザベトはローマ王アルブレヒト1世エリーザベト・フォン・ケルンテンの間の娘である[1]。兄弟にボヘミア王ルドルフ1世フリードリヒ3世レオポルト1世アルブレヒト2世およびオットーが、姉妹にハンガリー王妃アグネスおよびブランデンブルク辺境伯アンナがいる。

父アルブレヒト1世はフランスとの関係を強めるため、エリーザベトをフランス王フィリップ4世の息子の一人と婚約させた。1300年5月25日、長兄ルドルフ1世がフィリップ4世の異母妹ブランシュ・ド・フランスと結婚した。この結婚の後、エリーザベトとフランス王子との婚約は解消された。

その後エリーザベトはロレーヌ公フェリー4世と結婚することとなった[1]。婚姻契約書に1306年8月6日署名され、1307年に結婚した。この結婚によりエリーザベトはロレーヌ公妃となり、エリーザベトの弟フリードリヒ3世はフェリー4世からローマ王となるための支援を受けることができた。フェリー4世はミュールドルフの戦い英語版においてフリードリヒ3世に味方して戦ったが捕縛され、フランス王によって解放された。エリーザベトはロレーヌにおいてはイザベルと呼ばれた。

夫フェリー4世は1328年に死去し、息子ラウルが若年であったため、エリーザベトが1329年から1331年までロレーヌの摂政をつとめた。ラウールは10歳でエレオノール・ド・バルと結婚し、舅バル伯エドゥアール1世がエリーザベトに代わって摂政となった。

エリーザベトは1352年ロレーヌ公領の首都ナンシーで死去し、チロル伯領内にあったケーニヒスフェルデン修道院英語版の墓地に埋葬された。

子女

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エリーザベトはフェリー4世との間に6人の子女をもうけた。

  • ラウル(1320年 - 1346年) - ロレーヌ公(1328年 - 1346年)[2]
  • フェリー - リュネヴィル
  • マルグリット(1376年8月9日没) - オブリーヴ領主ジャン・ド・シャロン(1350年没)と結婚、のちフライブルク伯コンラート(1377年没)と結婚
  • アニェス - 早世
  • ティボー - 早世
  • アルベール - 早世

ラウルとマルグリットのみが成人し、他は早世した。

脚注

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  1. ^ a b Bogdan 2007, p. 55.
  2. ^ Bogdan 2007, p. 56.

参考文献

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  • Bogdan, Henry (2007) (French). La Lorraine des Ducs. Perrin