エレナ・パンポロバ
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基本情報 | ||||
フルネーム | Elena Pampoulova-Bergomi | |||
国籍 |
ブルガリア (1998–1996) ドイツ (1997–2001) | |||
出身地 | ブルガリア・ソフィア | |||
生年月日 | 1972年5月17日 | |||
没年月日 | 2023年4月19日(50歳没) | |||
身長 | 165cm | |||
体重 | 52kg | |||
利き手 | 右 | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1988年 | |||
引退年 | 2001年 | |||
ツアー通算 | 4勝 | |||
シングルス | 1勝 | |||
ダブルス | 3勝 | |||
生涯通算成績 | 406勝325敗 | |||
シングルス | 243勝179敗 | |||
ダブルス | 163勝146敗 | |||
生涯獲得賞金 | US$704,882 | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 2回戦 (1990・1998・1999) | |||
全仏 | 2回戦 (1990・1998・1999) | |||
全英 | 3回戦 (1999) | |||
全米 | 3回戦 (1999) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | 2回戦 (1995) | |||
全仏 | 3回戦 (1990・1996・1999) | |||
全英 | 2回戦 (1994・1997) | |||
全米 | 2回戦 (1995) | |||
4大大会最高成績・混合ダブルス | ||||
全仏 | 1回戦 (1997 | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 62位 (1996年9月9日) | |||
ダブルス | 38位 (1996年9月23日) | |||
2012年5月28日現在 |
エレナ・パンポロバ(英語: Elena Pampoulova, ブルガリア語: Елена Пампулова,旧姓:ワーグナー (Wagner) 1972年5月17日 - 2023年4月19日[1])は、ブルガリア・ソフィア出身の元女子プロテニス選手。WTAランキング自己最高位はシングルス62位、ダブルス38位。WTAツアーにおいて、キャリア通算でシングルス1勝、ダブルス3勝を挙げた。身長165cm、体重52kg。右利き。当初は母国であるブルガリア国籍で活動していたが、最初の夫がドイツ人であった縁からキャリアの後半から現役引退にかけてツアーでの国籍をドイツに変更して活動した人物である。
来歴
[編集]フェドカップブルガリア代表にも選出された経験を持つ著名なアマチュアテニス選手であった母のリュブカ・ラドコバ[2][3]と、同じくテニス選手であった父エミリアン・パンポロフとの間に二人姉妹の長女として生まれる[3]。1988年に16歳でプロに転向すると、同年12月にオーストラリア・メルボルンで開催されたフェデレーションカップで早くもブルガリア代表に選出される。この年から1992年までブルガリア代表に選出されたパンポロバは、1992年バルセロナ五輪にもテニスブルガリア代表としてシングルス部門に出場。1回戦で遠藤愛と対戦したが6-7(4),6-7(6)のストーレートで惜敗している。これと前後する1991年6月に最初の夫であるドイツ人のアクセル・ワグナーと結婚[4]。1997年から現役引退の2001年シーズンまでは登録名もエレナ・ワグナーに変更し国籍もドイツに変えて活動。1997年から1999年にはフェドカップドイツ代表にも選出され、特にワールドグループIIに転落していた1999年にはドイツ・ハンブルクに迎えた日本代表を3勝2敗で破り、チームの1年でのワールドグループ復帰に貢献したが、後にアクセルと死別。この死別による自身のモチベーションの低下を理由に2001年に現役を引退した[4]。現役引退後はテニスから離れ、スイスに移住し現地の投資銀行で働いていたが、そこで知り合い交際を続けていたスイス人銀行家クリスチャン・ベルゴミと2006年6月に結婚[4][3]。2008年3月には男児を出産している[4]。
2023年4月19日に死去。50歳没[1]。
WTAツアー決勝進出結果
[編集]シングルス (1勝1敗)
[編集]大会グレード |
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グランドスラム (0–0) |
ツアー選手権 (0–0) |
グランドスラムカップ (0–0) |
ティア I (0–0) |
ティア II (0–0) |
ティア III (0–0) |
ティア IV & V (1–1) |
No. | 決勝日 | 大会 | サーフェス | 対戦相手 | 試合結果 |
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1. | 1994年11月13日 | インドネシア,スラバヤ | ハード | 杉山愛 | 2–6, 6–0, ret.[5] |
2. | 1998年8月2日 | ポーランド,ワルシャワ | クレー | ヘンリエッタ・ナギョワ | 5–7, 0–6[6] |
ダブルス (3勝5敗)
[編集]大会グレード |
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グランドスラム (0–0) |
ツアー選手権 (0–0) |
グランドスラムカップ (0–0) |
ティア I (0–0) |
ティア II (0–0) |
ティア III (1–0) |
ティア IV & V (2–5) |
No. | 年月日 | 大会 | サーフェス | パートナー | 対戦相手 | 試合結果 |
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1. | 1989年8月6日 | ブルガリア,ソフィア | クレー | ジルケ・マイアー | ラウラ・ガローネ ラウラ・ゴラルサ |
4–6, 5–7[7] |
2. | 1989年9月17日 | ギリシャ,アテネ | クレー | ジルケ・マイアー | サンドラ・チェッキーニ パトリシア・タラビーニ |
2–6, 6–4, 6–2[8] |
3. | 1996年9月15日 | チェコ,カルロヴィ・ヴァリ | クレー | オルガ・ルジナ | アレクサンドラ・フセ ラウラ・ガローネ |
0–6, 6–3, 3–6[9] |
3. | 1996年9月22日 | ポーランド,ワルシャワ | クレー | オルガ・ルジナ | アレクサンドラ・フセ ラウラ・ガローネ |
1–6, 6–4, 7–5[10] |
5. | 1997年1月5日 | ニュージーランド,オークランド | ハード | アレクサンドラ・オルサ | ヤネッテ・フサロバ ジュリー・アラール=デキュジス |
6–7(1), 4–6[11] |
6. | 1997年4月27日 | ハンガリー,ブダペスト | クレー | エヴァ・マルチニコバ | アマンダ・クッツァー アレクサンドラ・フセ |
3–6, 1–6[12] |
7. | 1997年7月19日 | イタリア,パレルモ | クレー | パブリナ・ストヤノヴァ | パティ・シュナイダー バルバラ・シェット |
6-4, 6–2[13] |
8. | 1999年8月8日 | ベルギー, クノック=ヘイスト | クレー | エヴァ・マルチニコバ | エフゲニア・コウリコフスカヤ サンドラ・ナツク |
3-6, 6-3, 6-3[14] |
脚注
[編集]- ^ a b “WTA mourns Elena Pampoulova” (英語). Women's Tennis Association (April 28, 2023). 2023年8月10日閲覧。
- ^ ITF. “Fed Cup - Player profile - Lubka RADKOVA (BUL)”. 2012年5月28日閲覧。
- ^ a b c Topsport.bg (2006年7月11日). “Наша топтенисистка вдигна сватба в Швейцария”. 2012年5月28日閲覧。
- ^ a b c d 7дни СПОРТ (2008年3月29日). “Елена Пампулова се радва на син Алекс”. 2012年5月28日閲覧。
- ^ “SURABAYA WOMEN'S OPEN” (英語). WTA. 2012年5月28日閲覧。
- ^ “Prokom Polish Open” (英語). WTA. 2012年5月28日閲覧。
- ^ “Vtosha New Otani” (英語). WTA. 2012年5月28日閲覧。
- ^ “1996 Pupp Czech Open” (英語). WTA. 2012年5月28日閲覧。
- ^ “Warsaw Cup by Heros” (英語). WTA. 2012年5月28日閲覧。
- ^ “Warsaw Cup by Heros” (英語). WTA. 2012年5月28日閲覧。
- ^ “ASB Classic” (英語). WTA. 2012年5月28日閲覧。
- ^ “Budapest Lotto Open” (英語). WTA. 2012年5月28日閲覧。
- ^ “XI Internazionali Feminili Di Tennis” (英語). WTA. 2012年5月28日閲覧。
- ^ “SANEX TROPHY” (英語). WTA. 2012年5月28日閲覧。