エンリケ・ベルナルデリ
エンリケ・ベルナルデリ Henrique Bernardelli | |
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自画像 | |
生誕 |
1857年7月15日 チリ,バルパライソ |
死没 |
1936年4月6日 ブラジル,リオデジャネイロ |
エンリケ・ベルナルデリ(Henrique Bernardelli、1857年7月15日 – 1936年4月6日)は、ブラジルの画家である。
略歴
[編集]チリのバルパライソで生まれた。両親はヴァイオリン演奏家とダンサーで、兄に彫刻家になるロドルフォ・ベルナルデリ(1852-1931)がいて、弟に画家になるフェリックス(Felix Bernardelli:1866-1908)がいた[1]。家族は1865年にブラジルのリオグランデ・ド・スル州に移り、1867年にリオデジャネイロに移った。両親はブラジル皇帝ペドロ2世の王女の教師に雇われた[2]。
1870年にブラジル帝国美術アカデミー(Academia Imperial de Belas Artes)に入学し、ビクトル・メイレレス(Victor Meirelles)やアゴスティーニョ・ジョゼ・ダ・モタ(Agostinho José da Mota)に学んだ。1878年にブラジル国籍を得て、ヨーロッパ留学資格が得られるアカデミーの展覧会に応募するが、ロドルフォ・アモエドが選ばれた。1879年にベルナルデリは私費でローマに留学し、印象派を基本に独自のスタイルを開いたフランチェスコ・パオロ・ミケッティ(Francesco Paolo Michetti:1851–1929)やジョヴァンニ・セガンティーニ(1858-1899)らの作品から影響を受けた。
1888年にブラジルに帰国し、国内外の展覧会に参加し、1889年のパリ万国博覧会の展覧会では銅賞を受賞した。1890年のブラジル帝国美術アカデミーの美術展(Exposição Geral das Belas Artes)に出展し、1893年のシカゴ万国博覧会にも出展した。1891年に国立美術高等学校(Escola Nacional de Belas Artes)の教師となった。イタリアにはその後も何度か旅し、ローマ、ナポリ、ヴェネツィアなどを訪れた。国立美術高等学校の教師は1906年まで続け、その後は自分のスタジオで教えた。
作品
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「母性」(1885)
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デオドロ・ダ・フォンセカ (c.1900)
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ミナスジェライスの泉
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ディアマンティーナの鉱夫
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水汲みの娘
脚注
[編集]- ^ Zelia Salgado. “The Bernardelli Brothers”. 2019年11月30日閲覧。
- ^ “Henrique Bernardelli” (Portuguese). Portal Artes. 2019年11月30日閲覧。
参考文献
[編集]- Dicionário de Curiosidades do Rio de Janeiro, A. Campos – Da Costa e Silva, São Paulo, S/d.