コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

オシップ・ピアトニツキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オシップ・アロノヴィチ・ピアトニツキー
Осип Аронович Пятницкий
1926年より前
生年月日 1882年1月29日
出生地 ロシア帝国コヴノ県ウクメルゲ
没年月日 (1938-07-29) 1938年7月29日(56歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
所属政党 ロシア社会民主労働党
→ロシア共産党(ボリシェヴィキ)
→全連邦共産党 (ボリシェヴィキ)(ソビエト連邦共産党
テンプレートを表示

オシップ・アロノヴィチ・ピアトニツキーロシア語: Осип Аронович Пятницкий, ラテン文字転写: Osip Aronovich Pyatnitskii, 1882年1月29日 - 1938年7月29日)は、ロシア帝国革命家ソビエト連邦政治家である。本名はイオシフ・アロノヴィチ・タルシスIosif Aronovich Tarshis)。ユダヤ系

経歴

[編集]

ロシア帝国コヴノ県(現在のリトアニアヴィリニュス郡ウクメルゲ生まれ[1]

1898年ロシア社会民主労働党に入党[1]1903年ボリシェヴィキに参加[1]1921年コミンテルン執行委員会国際連絡部責任者となった[1]。ロシア共産党(ボリシェヴィキ)組織部書記、1924年-1927年党中央統制委員、1927年-1937年全連邦共産党 (ボリシェヴィキ)(ソビエト連邦共産党)中央委員などを歴任[1]

NKVDへの緊急権付与に反対した直後の1937年7月27日反革命罪逮捕された[1]。一年にもわたる拷問にもかかわらず、自白はしなかったと伝えられる。翌1938年7月28日に死刑を言い渡され、翌日にコムナルカ射撃場銃殺刑に処せられた。妻も1940年に強制収容所で獄死している。

1956年1月、名誉回復[1]。妻も同年に名誉回復された。

著作

[編集]

単著

[編集]
  • 青木俊三訳『革命の陣頭に立ちて 或るボルシェビキの記録』共生閣、1928年
    • 三矢剛訳『革命の陣頭に起ちて』希望閣、1928年
    • 三矢剛訳『ボルシェヴィキの手記』改造社改造文庫第2部第151篇、1931年
  • 水野正次訳『組織論』(組織問題叢書第1編)白揚社、1928年
    • プロレタリア書房編輯部訳『組織論』プロレタリア書房、1931年[2]
  • 山崎英雄訳『資本主義諸国における共産党の組織事業』イスクラ閣、1928年
  • 山崎英雄訳『プロレタリアートの組織活動』イスクラ閣、1929年
  • 吉田栄一訳『ドイツ・ファシズム論』叢文閣、1936年

共編著

[編集]
  • オシツプ・ピアトニツキイ編、桑原悦夫訳『組織問題に就て コミンタン第弐回組織会議の決議』白揚社、1929年
  • パーベル・ミフとの共著、高山洋吉訳『最近の支那に就いて』(国際時事問題叢書3)永田書店、1930年

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g ПЯ́ТНИЦКИЙ” (ロシア語). ロシア大百科事典. 2018年10月24日閲覧。
  2. ^ オシップ・ピアトニツキー 著[他]. “組織論”. 国立国会図書館デジタルコレクション. p. 1. 2018年10月23日閲覧。

ウィキメディア・コモンズには、オシップ・ピアトニツキーに関するメディアがあります。