オスカー・ハマースタイン2世
オスカー・ハマースタイン2世 | |
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1940年当時 | |
基本情報 | |
出生名 | Oscar Greeley Clendenning Hammerstein II |
生誕 |
1895年7月12日 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク |
死没 |
1960年8月23日 (65歳没) アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ドイルズタウン |
ジャンル | ミュージカル |
活動期間 | 1927年 - 1960年 |
オスカー・グリーリー・クレンデニング・ハマースタイン2世(Oscar Greeley Clendenning Hammerstein II, 1895年7月12日 - 1960年8月23日)は、アメリカのミュージカル作詞家・脚本家。
祖父はユダヤ系ドイツ人のオスカー・ハマースタイン1世、父親は劇場主。ニューヨーク生まれ。
人物
[編集]作曲家ジェローム・カーン、リチャード・ロジャース等と共に多くのミュージカルの脚本、歌詞を書いた。1916年コロンビア大学卒業後、同校法科大学院に進むが、ブロードウェイの劇場主であった父の死を機に1年で退学し父の後を継いだ。学部時代は、演劇部でVarcity Show(伝統の学部生制作ミュージカル)の歌詞を書いた。
歌曲と個人芸で組み立てた娯楽ショーが中心であったブロードウェイ・ミュージカルに物語性を組み込み、現在に近い形のブロードウェイ・ミュージカルを創設した功労者の一人である。ジェローム・カーンと組んで南部の差別問題を題材に取り上げた『ショウボート』、リチャード・ロジャースと組み、ドラマティックなストーリーをショーの骨子とした『オクラホマ!』は、ともに大評判を呼び、ブロードウェイの記念碑的作品となった。これは作詞以外に脚本もこなすハマースタイン2世だからこそなしえた革命であり、その作劇法は後世のブロードウェイ・ミュージカルの重要なお手本となった。1950年ピューリッツァー賞 戯曲部門受賞。
また人格的な誠実さでも知られ、プロデューサーとしてもミュージカル作品を後援したほか、スティーヴン・ソンドハイムやレナード・バーンスタインなど数々の才能に作劇を指導し、ブロードウェイに送り出した。
1960年にペンシルベニア州ドイルズタウンの自宅で胃癌のため死去。サウンド・オブ・ミュージックに追加で書き下ろした『エーデルワイス』が絶筆となった[1][2] [3]。彼の死を受けて、ニューヨークのブロードウェイ[4]、ロンドンのイーストエンドの劇場街[5] がともに照明を落とし、弔意を示した。
終の棲家となったドイルズタウンの邸宅は1988年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。
作品
[編集]- 『ショウボート』(1927年)
- 『オクラホマ!』(1943年)
- 『南太平洋』(1949年)
- 『王様と私』(1951年)
- 『フラワー・ドラム・ソング』(1958年)
- 『サウンド・オブ・ミュージック』(1958年)
受賞
[編集]- アカデミー歌曲賞
- 『レディ・ビー・グッド』 "Lady Be Good" (1941年):『思い出のパリ』の作詞。
- 『ステート・フェア』(1945年):『春の如く』の作詞。
脚注
[編集]- ^ Maslon, Lawrence. The Sound of Music Companion (2007), p. 177, Simon and Schuster, ISBN 1-4165-4954-4
- ^ "Oscar Hammerstein II" rnh.com, accessed November 2011
- ^ November 7, 2006. "How Do You Solve a Problem Like Maria?" BBC.
- ^ "Blackout on Broadway to Honor Hammerstein", The New York Times, p. 52, September 1, 1960
- ^ "London Honors Hammerstein", The New York Times, p. 14, August 26, 1960